8月5日(月)
今ふと片付け物をしながらふと考えた。今この瞬間ぼくが死んだら…と周りを見回す、、まぁいいだろう…そこそこ片付いている。
(この所作は僕が1週間に1回は繰り返す行動です。
いつでも雑然としているように見えて割と片付いているのはそのせい)
植物は種子を飛ばしたら平然と枯れていく、あるいは乱暴に抜かれていく、、そこに何の不自然もない、邪魔なものは取り除かれる。基本的に人間基準。
「三体」の宇宙の中に、地上を好きなところに移動できる植物が出てくる、、つまり地球とは違う別世界の環境に適応した植物。
そこでは、地球上でいうところの動物みたいに環境に合わせている、ちょっと愉快。
トランプのカード位の透明な薄い膜が物語の最後の方で出てくる。実はこれドラえもんの「どこでもドア」みたいなもの…それは不可能と思われることを可能にするという意味で恐ろしい。
その小さな薄い膜は3次元空間を2次元空間に閉じ込めてしまう出入り口なのです。
広大な宇宙空間を丸呑み!宇宙空間の闇。
SFの世界は、不可能を可能にするそんな膜と言えるかもしれない。
科学者が探し当てた新世界に最初に馴染めるのは多分、遊び人、アーティスト、オタクたちだろう。
法則に疎漏がないかどうか、不整合な部分がないか、例外がないかどうか一生懸命探求し続ける科学者たちを尻目にその他の暇人たちには「労働」しているとしか思えない学者連中の、その間を縫って「現実」を楽しむ。
新しく生まれた環境を楽しめるかどうか…楽しめる人もいて楽しめない人もいる…やがてみんな慣れてきてそれなりに楽しめるようになる。
三木清風に言えば… 唯物論者たちの過剰な熱を覚ますために水をぶっかけるのは今を楽しむことを知っている者たち、、未来社会を誘導していくのは科学者たち、未来社会を楽しむのは遊び人たち、、どうかな
海の記憶は貝殻に…陸の記憶は樹木の年輪に、人の記憶は…本の中に残されている。
「三体」最終巻を見ると未来の世界から覗く現世界は未来の方法で空間に畳み込まれる。
ビックバンで膨張し続けている宇宙は条件が揃う転換点で再び縮小に転じる…そしてまたビックバンを引き起こす、、たくさんの次元が交錯する宇宙、、その中で…地球上の文化のビックバン?は、ここ5000年の間に人間が、打ち立てたもの、、懐かしさも、誇りも、恥も人間の記憶に書き込まれている。
人間独自の文化は独自に花開いた地球独特のものと意識すると異星人たちの文化もまた、理解できるかどうかは別として、独自の文化そしてその存在を認めざるを得ない。飲み込まれるか飲み込むか融合するか。
地球の文化とは折り合わない、交わらない文化だとしても…理解しきれない文化があると想像するだけで…地球人が多様性を大騒ぎする意味がわからなくなる。地球人は…多様どころか一様に見えてくる不思議。
もしかしたら視点を変えてみるのは人間の得意技かもしれない。適応力を左右する重要な特質。環境が変わればその環境に合わせて自分をチューニングする。
その可塑性が人間を未来に適応させていく。過去を上手に思い出すことができる特質が未知の未来に
飛び込んでいくための支えになる。そう思わなければ人間は過去から学べない、学ぶ必要に思い至らない。過去の人間とタッグを組んで未来に突き進む。未来が必ずしも良いことばかりではないとしても選びとった未来は連帯責任で背負っていく覚悟はその時代に生きる人間全てが担うべきだと思う、、えらそう😅
昨日プールで、いきなり潜水から水中でのドルフィンキックの練習を始めて、、心臓に痛みを感じすぐさまストップ…無茶な行動を反省しました。
心拍数を上げてから徐々に練習に入ることを肝に銘じます。
1日の初めにウォーミングアップ、1日の終わりにクーリングダウン…毎日の生活も運動も全く同じ、、もしかしたら一生も?!、、、まぁこれは我が父の持論。僕が引き継ぐ。
身の回り品を整理していくと…横のものを縦にして使ってみたり組み合わせて使ってみたり、何に使うかわからないものでも特に場所を取るものでなければ「いろいろボックス」しまっておくと思いがけない使い途が出てきてその都度楽しめる。
端布(はぎれ)をとっておいていろいろ使い回していた母を思い出す。捨てる事はいつでもできる…と僕は何度、聞かされたことだろう。
耳にタコができるほど聞かされてやっと身に付くものもある。
夏ごもりの宿題のつもりで、暑い暑いと言いながらちょっとした仕事を片付けていくと気がつけば滞って後回しになっていたことどもがわかりやすく整理されて目の前に出現してくる。
とても気分が良い。
器に合わせて、身の丈に合わせて、環境にあわせて行く。
今までもこれからもそれが僕のスタイル…なんちゃって。