7月31日(水)
最近あくびを覚えた。頭を使いすぎて酸素不足になったなどという高級なあくびではありません。
落語のあくび指南🥱の類だと思います。
あくびをするにもそれなりの格好をつけたい。
後期高齢者初心者にしてとうとうこの領域に達したと思うと感無量です…ちょっと大げさ🤏
本を読もうか、食事をしようか、絵を描こうか、、なんと呑気な悩みでしょうか、、こんな悩みならずっと続いてもらいたい。
歳をとると1日が長く1年が早く感じられるとか…つまり1日暇を持て余す割には一年間はあっという間に過ぎる、、という意味だと思う。
母が亡くなって10年半、やっと年寄りの自覚ができてきたような気がする。
年寄りの覚悟…の領域に達するまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
年寄りとしての自覚と覚悟が必要であるかどうかということも含めて、だからです。
そうは言っても、年寄りは初めての経験にしては、何事につけ奥手な僕にとっては、これでも進歩してきたととりあえず言っておく。
それとは別の感覚も獲得しつつある。
一向に飽きることなく続けている水泳のことです。
水泳を続けてきているおかげで、最近、両生類感覚も少しできてきたような気がする。
僕らは海から出てきた…その記憶を取り戻しつつある…(ちょっと言ってみたかっただけで深い意味はありません)。
ところで、、一生懸命泳ぎ続けている人を見ていて気がついたこともあります。
意外と真剣。遊んでいる人の顔に見えない、まるで求道者に見える。
そう思ったら、やっと僕もほっとできた。
ほっとできたのはそれが僕自身が落ち着く「定義」だからだと思います。自分を落ち着かせるための決めつけ。
同じように、僕自身に年寄りの自覚が芽生え始めたのも、自分自身を落ち着かせるための、年寄りとは何かという自分なりの「定義」ができつつあるからかもしれないと思い当たります。
根が単純なので、、なんでも決めつけないと落ち着かない悲しい性(さが)?、、😅
(夏が長い、、牛乳がおいしい、ビールもたまに飲むと美味しい、日本酒は燗をつけて飲むといつもおいしい。
漬物樽は頼りになる、、古漬けができるからだ。古漬けでお茶漬けを食べればいつだってリセット完了。ぬかみそを捨てるなと言った母は正しい)
今日は年とってからの暮らしのリズムということについて考えました。朝起きて、身なりを少しだけ整えて(寝起きの姿ではみっともないから)、朝食をとって、洗濯して(毎日ではない)、掃除して(これも毎日ではない)、パソコン覗いたり読書したり・・・日本の家だと庭の花を摘んで活けるとか。あ、ごみ捨てもあるな。
掃除もドイツの家では管理人さんが喧しい音をたてて掃除機をかけてくれますが、日本だと板の間はお掃除ロボット、座敷は箒(茶殻を撒いたりして埃が舞わないようにする)なので静かなものです。日本での暮らしについては、コロナで13カ月日本にいた2019年から20年秋までにその予行練習をした感じ。ただ、それから5年近く経った今は、やはり当時と比べて体力や機敏さが断然衰えています。
それで、こんな調子だと後10年後にもし生きていたとして、料理も億劫になるだろうし、洗濯もいい加減、入浴も人の手を借りずにできるかどうか不安です。たとえ動作が遅くても自分で自分の回りのことができるなら、時間制限があるわけじゃなし、できるというだけで十分。リズムがちょっとのろくなるけど、そうやって日々が過ぎて行ってくれるなら構わない。
でも、それができなくなったら?心配してもしようがないと分かってはいるものの、やはり気になりますよね。今の世の中、子供のあるなしはあまり関係ないみたい。(それも少子化の要因の一つでしょう。)それより、早くちゃんとした介護ロボットを開発してほしいわ。使い方が分からないかもしれないけど、誰かが予めセットしておいてくれるんでしょ?