7月26日(金)
今日はプールが休みなので昨日は今日の分まで泳ぐつもりでゆっくりと泳ぎました。
10時ごろ僕の指導方法に注文の多い生徒?が僕の目の前に来て「教えろ」と離れませんので仕方なく気がついたところを2 、3指摘してさしあげてました。他にも上手い方はたくさんいらっしゃるのに何故かその方は僕の泳ぎ方が気にいっているらしい…その割には教え方が悪いだのなんだのと口やかましい。
この頃は他の年配の方からも泳ぎ方について聞かれるのでその都度その方に合った無理のない練習方法など気がついたところをお話しします。
こんなことが楽しいですね。
家に戻って焼きおにぎりと玉ねぎの味噌汁で簡単に腹を満たし読書。
疲れると、読みさしになっている主に絵本類を整理する。
いちど読んでいてちょっと捨て難くなっていた本をもう一度読んで涙ぽろぽろ。
「ウェディングウェブ」(サムがつむいだ夢)ネット・ヒルトン著小松原宏子訳 /堀川理万子絵
くもん出版2008年8月初版第1刷発行
思い出がいっぱい詰まった住まいを離れて近所のよく整った老人施設に周りの勧めでいやいや入った翌日そのおばあさんはなくなってしまいます。
その前日には自分の大好きなひいおばあさんのために大嫌いな7本足の蜘蛛(ひいおばあさんは大のお気に入り)「サム」を、ひ孫の少女が必死の思い(蜘蛛が嫌いなので触れないから必死)で空き缶に入れ、蓋をして、おばあさんの住まいから老人施設に届けます。
部屋に放ったときのおばあさんの驚きと喜び。
大好きな、今は既になくなってしまった自分の夫との結婚式でその花嫁姿を飾った小さな真珠をあしらったレースの衣装のような蜘蛛のサムが作った朝日に輝く窓辺の蜘蛛の巣を見ておばあさんは息を引き取ります(そのシーンは読者が想像するだけです。本の中には(きっと、あえて)書かれていません)。
クモの巣の真ん中には小さな黄色い花が置かれていました。
蜘蛛がそんなことをするわけがないと思わせない力がこの物語にある。
少女とその両親のそれぞれの想いが静かに伝わる少年少女向け物語です。
僕が兄の施設に何が何でも届けたかったものがあります。兄が何十年も座り続けていた昔の頑丈で無骨な重い安定感のある椅子です。僕が作った小さな赤い座布団がそこに収まっています。
人間を支えるものはほんの小さなもの…それを見ればすぐに自分の世界に入って行けるスイッチのようものです。
他の人が見ればあっと驚くような一見つまらないものがそのスイッチであることも稀ではないと思います。
あなたのスイッチはなんですかって聞いてみたいですね。
というかそういうスイッチが「あるか」どうか聞いてみたい。なければ急いで用意しなければならない…ハハハ。
蜘蛛で思い出したのですが、90年代初めにアメリカに出張したとき、郊外のショッピングモールの書店にCharlotte's Web(シャーロットの蜘蛛の巣)という子どもの本がありました。シャーロットというのは牝の蜘蛛です。この蜘蛛が、間もなく食べられようとしている豚ちゃんを助ける話(日本語題は「シャーロットのおくりもの」)。蜘蛛ってあまり良いイメージではないので(日本の家にはよく出入りしているので、見慣れていますが)、その蜘蛛が主人公というのが意外だったものの、とても可愛く描かれています。
それからだいぶたって、あれは「かちねっと」の時代、ろれちゃんがヘビウリという植物を紹介してくれました。瓜の一種なのですが、ひょろひょろと長く長く伸びて、とぐろを巻いたようになることもあるのが名前の由来。ろれちゃんの写真ではその瓜と並んできれいな花を見せてくれていて、それが繊細な白いレースのようにきれいなのです。蜘蛛が懸命に紡いだ作品のようにも見えます。それで私は思わず「ヘビウリの白いレースの花を見て あっちがいいと小蜘蛛がごねる」と馬鹿っぽい歌を作ったことがあります。
明日から日曜日まで夫の郷里に出かけます。亭主の従弟が亡くなったのでお葬式に参列するため。それはいいのだけど、88歳の義姉が自分も行くというので一緒に連れて行かねばならず、そのため早めに家を出なければなりません。年齢と体調もあって墓地で長く立っていられないし(折り畳みの椅子をもって行こう)、暑いの寒いのとうるさいのでこちらも毛布を掛けたり扇いだりいろいろ気を使わねばならないし(天気予報では雨らしい)、式のあとの軽食だって10分も座っていたら「横になりたい」というし、はっきり言って連れて行く私たちにはお荷物なのです。今年初めの義兄の葬儀の時に、全部一通り経験しています。
当の本人はすご~く張り切ってイキイキしています。自宅で毎日退屈しているから、葬式でも何でも自分が参加できるイベントがあると、大喜びでその日を待ちかねている感じ。老いの身では人さまに手間をかけるから自宅で静かに故人の冥福を祈ろう、なんて殊勝さはゼロ。社交の大チャンスだと思っているらしい。
私の母も似たようなところがあって、晩年に介護施設にいたとき私が帰国すると、早く連れに来いとやいのやいの言う。「明日友達が何人か来るから、明後日迎えに行くわ」というと、自分もその人たちと同席したいという。でも彼女の場合も、座ってお茶を飲んでいるとすぐ「疲れた横になりたい」というのでベッドに連れて行かねばならないし、第一老女がそばにいるとお客さんも気を使う。除け者にしないよう、適当に話かけなくてはいけない。
それではみんな楽しめないので、明日は施設にいてちょうだい、と言うと「私のことが恥ずかしいのね、こんな婆さんを見せたくないのね!」と喚いて、もう手が付けられない。
まさか母の死後16年経って似たような経験をすることになろうとは思いも寄りませんでした。しかも、今回はこっちも年とっているし。彼女の弟(わが亭主)だって84歳ですぞ。彼が車椅子でもおかしくないんだぞ。
世のお年寄りに「できるだけ他人に迷惑を掛けず、静かに最晩年を過ごす」ことの重要性を教えるべきではないかと思ったりします。耄碌して分別も判断力も無くならないうちに、できれば70歳代でそういう講座に出席してもらいたい。