7月19日(金)
突然耳の聞こえが悪くなってどのぐらいたつのか覚えていない。
電話で話していて突然相手が黙りこくってしまったので僕が大きな声で話しかけると…どうも相手はちゃんとしゃべっているらしい…事情を相手の方に話して電話を切り翌日近所の耳鼻科へ行った。
後で知ったのだが突発性難聴と言うやつらしい。耳鼻科の先生は慈恵医大で精密検査を受けるように先方の病院への検査所見を封書で持たせてくださった。
3日から1週間ほど手元に持っていて結局精密検査はしてもらわなかった。つまり諦めた。治る例もあるらしい。
残された聴力で楽しめるものもたくさんある事がわかって少し安心しました。
兄の所から悩みを抱えて考えながら歩いていて駅の階段で下顎を打ちつけ、血だらけになって家にたどり着いたことが…今懐かしく思い出される。
なぜ懐かしいか。あの時以来右足の膝が常時痛むようになり…最近それが気にならなくなってきたのです。痛みが完全には取れませんが時々痛む程度で済んでいます。その程度で済んでいるので駅で転んだことがなつかしめるのです。
時々心臓にコツンとおもしろくない軽い痛みが走りますがそれもほとんど気にならない程度の不整脈と理解するようになりました。
呼吸が少し苦しくなるのももう歳のせいだなと諦めていたのですが毎日心がけている水泳のおかげで忘れていることが多いです。
さて何より強調したいのは耳の聞こえの悪さが僕の生活をほどよくコントロールしていることについてです。
本当にやりたいことだけに集中できてきたかなとそのことに感謝しています。自分の心配だけに集中できている…これがこんなに気分が良いとは思いませんでした、多分生まれて初めての経験だと思います。
母に死ぬことについて聞かれたとき…僕も死んだことがないからね、わからない…でもね、、二度死ぬわけでは無いからね、わからなくても心配することはないと思うよ、、そしたら嘘のように母の顔が晴れやかになり(僕の気のせいかもしれませんけど)こくりとうなずいてくれたような気がいたしました。それ以来そのような不安めいた事は一切口にしないようになったのです。不安がなくなったと言うよりは僕を困らせたくないとの思いもあったのだと思います。
僕は口からでまかせを言ったのですがそれは今よく考えれば自分自身にも言い聞かせていたこと。
死んだことがないからわからない。この自明なことを心配しなくなったから、身体に生じている多少の不都合は気にならなくなってきたのだと思います。
体のことを気にすることが少なくなった分、ちょっとキザな言い方ですが自分自身の暮らし方に集中できるようになったのだと思います。
最近はわからなくなってきた部分がどんどん増えてきているなと思います。今まではそれがわからなかっただけということに気がついています。
暮らしていくことの毎日の発見が僕を支えてくれている…機嫌よく暮らしていきたいです。
新しき夏の朝連れ炎天下
幸待つや開かぬページ夏曝書
蚊一匹来ぬ不穏かな夏の宵
風抜けて喉にビールや夏の夕
盂蘭盆スルーする気で暦無視
ばち当たりここに至る、難に遭遇しても一切恨みっこなし🤭
私の叔母の一人はよく、あの世ってよほどいい所なんだろうね、だって戻って来た人はいないもの、と言っていました。
母は最晩年、何のために生きているのか分からない、生きている意味がない、と言いながら、せっせと薬を飲み、施設の常任医をしょっちゅう煩わしていました。生きている意味がないのに、どうして薬を飲むの、と嫌味を言うと、「だって、生きていたいもの」と答える。だったら、生きることは無意味だの、生き甲斐がないのとうるさく言って周りをウンザリさせないでほしい。
人は何のために生きているのか、という疑問は誰でも持つもので、子供の時に既に(自らに、あるいは天に向かって)そういう問いを投げかけた人もいると思うけれど、若くても年とっていても、誰からも、どこからも、答えは期待できません。それでも生きていくのが人生。その程度の見識は、母親にも持っていてほしかった。要するに彼女は関西弁でいうアマエタで、何もかも与えられるのが当然と思っていて、一生を通じて成長ということが全くなかったのです。それを「お母さん、幸せな人生だったのね」という人もいますが、私に言わせると最低の人生。
そうなった責任の一端、いや、かなりの部分は父親にもあると、ときおり恨めしくなります。どちらも死んでしまているので、今さら、なんだけど、その後遺症は今の私の生活にも間接的な影響を及ぼしていますので。
西洋の女性は日本人に比べて狡猾で油断ならないところがありますが(もちろん一般論)、日本女性は西洋人には少ない因循姑息な傾向が強いと思います。どういうことかというと、亭主に従って(一見)穏やかにおとなしくしている代わり、「だからずっと私の面倒見て下さいよ」という姿勢。これって、徹底して囲われ者の根性だと思う。記憶にある年配女性の大部分がそうだったので、今思い出しても腹立たしくなります。
いっそ未亡人や「嫁かず後家」など自分の力で生きた人の方が、よほど清々しい。だから最近の日本人女性(韓国人や中国人も)に結婚願望があまりないのは結構なことだと思います。そういう人は、年とって周囲の人や子供に「私は何のために生きているの」なんて馬鹿げた質問はしないでしょう。