7月3日(水)
朝のひととき、メディテーションに充てることにしました。
瞑想、、どころか迷走してしまいそうな糸の切れたタコのような毎日の重石の役目くらいにはなってくれそうです
なんてことはない、蝋燭に火をともしてあたりを暗くして見つめているだけの話
妄想を消し去ろうとか集中しようとかそんな気は全くありません。
強いて言えば太古の人が、火を知ったその日から延々と炎を見つめてきたように僕もぼーっと眺めているだけです。
かのゲーテは、なくなる前にもっと光を、、と言ったとか、、ことに際して、慌ててそんなこと言わなくても済むように、、
太陽のコロナが波動に乗じ地球に届いたようなその光をたっぷり眺める(暇なので無理して言葉をいじくりまわしています😅)
昨日で3日目ですが…じっと見つめていることに既に飽きてしまったのでその辺は適当にやり過ごしてます。
薄暗い部屋が落ち着くという事はここ10日ばかりの実験で判明しました。部屋が暗くても読書の時は手元の明かりで間に合うわけですし料理の時は台所の蛍光灯をつければ間に合う。
30年以上前、秋葉原のヤマギワ電気の照明講座?確か10万位払って受けたことがある、、講師は建築家の隈研吾(当時から有名人、、話の内容は忘れましたが…教室に来た途端…今どこそこの外国の島で遊んで帰ってきたところです、なんてキザなことをさらりとのたもうていらっしゃいましたっけ、、)をはじめそうそうたるメンバーだったと記憶している(その頃、LEDランプで暖色から寒色まで自由に選べる時代が来るとは思ってもいませんでした)。
ところで、、突然ですが…ホテルの化粧室の鏡が自分を美しく見せる鏡ってご存知でしたか?
顔がきれいに見えるように工夫されていますね。
照明の魔術だと思います。
あるいはまた、、まばゆいばかりのコンビニの照明は人物の影さえ作らせない。
あぶり出される人間像。そこにいる自分が虚像ではないかと思ってしまう(ちょっと大袈裟)。
占い師に水晶玉が必要なように僕らも小さくてもいいから揺らめく炎が必要だ(今日も先を急ぎます)。
見つめる瞳の中には炎が映り込んでいるはず。だからどうしたと言わないでいただきたい。
作り出された虚像のような整った空間に囲まれ始めている僕らは、そこから逃げ出すことを考えるのではなく…その環境に対抗する心構えを保つため各々、自分だけの空間を作り出さなければならない(決めつけその1)。
自分を閉じ込めるための空間と言い直しても良い(一体いつ世間に出ていくのだろう?
アルチュール・ランボーも松尾芭蕉も、詩人は旅に出るものだ…気楽な人は詩人にはなれない、自分自身を変える気がないからだ、、あ、口からでまかせ言ってます、、面白いので😅)ろうそくの炎はそのための小道具になる、、
なんだか、ちまちました情けない結論…着地失敗かもしれません😅
冷蔵庫涼み処の白さかな
扇風機首振る風に足晒す
熱中症スマホ忙し注意報
青く透くメロン食いつく台所
4畳半裏の路地風レース吹く
(昨日から読み始めた本…ほとんどちんぷんかんぷんなんですが、どうも所々大切なことに言及しているような気がして文字面を追っています。
哲学の犯罪計画(ヘーゲル「精神現象学」を読む):ジャン=クレ・マルタン著/信友建志訳/法政大学出版局2013年6月初版第1刷発行
イエス・キリストからフランス革命、ドストエフスキーからニーチェ、、僕がかろうじて持っているほんの断片的な知識に触れてくる箇所があり、その都度、解釈のヒントがありはしないかとついつい読み進めてしまう。
人殺しのカインからドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟のアリョーシャのような人間信頼の権化のような人物も取り上げられているし、神に代わって超人の出現をイメージしたニーチェも、もちろん取り上げられている(どうせ僕は暇なんだから直接ヘーゲルの精神現象学読めばいいのにと思うけど敵前逃亡)。
例外はあるにせよ、権力者が見えにくくなって自分自身の立ち位置、身の置き所、、つまり精神的に対峙する相手が定まりにくい現在を予測しているような箇所はないかいな、、と僕は見当をつけ、積極的に曲解して?勝手に読み取ってしまう。そうでもしなければとても読み進められない。
どんなに偉い哲学者であろうと所詮は人間の事について考えているはず、人間のことから離れられない…はず、、という独断専行決めつけの態度でなければ1ページ読んでお手上げで捨てることになってしまうから…なんかもったいない気がして読んでます、、つまり投げ出してしまうのが難しい…後ろ髪を引かれる思い…門前の小僧は今日も門前周りに日陰を見つけて暇つぶし…。
今布団の横で安物の扇風機がとても安物と思えない位に上品に僕に風を送りながら役目を果たしています。何も電気代をけちってエアコンを入れないわけではありません。
冷やせばいいんでしょ、みたいに不粋に冷気を吐き出すエアコンよりも僕に気を遣ってくれているように静かに首を振りながら頭から足先までそよ風を送ってくれる扇風機の方が気分が好い。
扇風機呉れる風追う日記かな
マグダラのマリアもイエスを生んだマリアもこの本では取り上げていますね(何で取り上げたか忘れました)。 ヨーロッパってそういうとこなんですよね…歴史がそこかしこに埋め込まれている、、今読んでいる本なんかまるまるドイツですよ、、世界とはドイツのことなり、って感じ。 橋本多佳子、若々しい矜持、ビジネスパーソン?の勢いを感じますね、昨日の手紙なんか強引に古びさせて、気持ちはすでに明日に向いている、、なんか男らしく?ていいです、が、 …たっぷりと湿り気を含んだ、というか、今まさに滴り落ちそうな満杯の水をたたえたような紫陽花を、過飽和と言い切った方の俳句のほうに、僕は偉そうに、軍配をあげたい この一句に目が覚めました、、春硯さんの感想もぜひお聞きしたいところです 過飽和の大気に咲くや額紫陽
先日「蝋燭の灯」という名前のインド人の話をしましたが、絵画の中で蝋燭を好んで使ったジュルジュ・ド・ラ・トゥールという画家がいますね。有名なのは「大工の聖ヨセフ」「灯火の前のマグダラのマリア」など。元娼婦だったマグダラはラ・トゥールのお気に入りだったようで、他にも「鏡の前のマリア」ほかいろいろあります。ワシントンのナショナルギャラリーなどにも展示されていますが、有名な二作を私はルーブルで見ました。(もし添付の絵が見られないようでしたら「大工の・・」と「灯火の前の・・・」を検索なさってください。)マグダラのマリアは、しゃれこうべ(メメントモリ)を膝に、まさにメディテーションの真っ最中。
それで蝋燭といえばこの画家の作品が思い浮かぶ一方で、これまでラ・トゥールその人について調べたことはありませんでした。先ほど、自分が何も知らないことに気づいてウィキを見ると、ロレーヌ出身とあって嬉しくなりました。わが家からも亭主の郷里からも近いんですもの。17世紀前半の人ですから、当時のロレーヌはフランスではなく、ウチの亭主の祖先などと同郷かもしれない。若い頃に活躍した町がリュネヴィルというのもびっくり。ここは今ではシケた町になっていますが、何となく哀れ(ものの哀れ)を感じさせるところです。おかげでちょっと勉強させていただき、発見がありました。
あ、今回の一連の俳句の中でも特に最後のはいい感じですね。扇風機の優しい風を追う日記。こちらも梅雨のような天候で、紫陽花にとってはありがたい雨のようです。
・過飽和の大気に咲くや額紫陽花
あじさいの句で私が好きなのは、橋本多佳子の
・あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ