6月28日(金)
一昨日昼間、思い立って、四つ木御殿から引き上げた作品にうしろから照明を当てたら全く違った印象になりました♪
この作品はこうやって見る作品だったんですね…数年経ってから思いつくなんてちょっと恥ずかしいです。やっと日の目を見ました。知り合いのお弟子さんの作品です。
さてまた本を取り上げます。
図書館のリサイクルコーナーで拾ってきた本。最初の印象が覆されて、どんどんのめり込んでいく感じで読み出した本、、「ピアニストの時間」:舘野泉著みすず書房2010年10月印刷発行
ピアニストでもあるのにピアノを文学で語る。演奏と文学をきちんと分けて生活している感じが素人の僕には新鮮です。演奏と文学(音楽批評)は別物と本文の中でも触れています。演奏は演奏、批評は批評、のきちんとした区別が気持ちが良い。心の働きと理性の働きの違いかな?
自分でも笑っちゃうのは…この本の中で取り上げている曲ほとんど全て知りません、つまり音楽のど素人の僕がなぜ楽しめるか?この本が文学であるからだと思います。
(この人のように生活を心の活動と理性の活動を分けて考えれば少しは心安らかに生活できるのかなと思いました。
心と理性の葛藤に苦しむのはもういいかな…と。
頭で考えて、許せないものは許せないままにそっとしておく。それは苦しいことだけれど苦しんでいるもう1人の自分にゆだねてしまう。
芸術パフォーマーとしての自分と文字を綴って語る自分をはっきり分けてしまう…この本を読んでいて、自分の中の2人を峻別している人を初めて知りました。
現実は現実として生きていかなければならない。
心苦しく墓場まで引きずっていかなければならない自分と、心楽しく生活していかなければならない自分。どちらも大切な自分ですもんね。
この本の中で著者はそんなことは一言も言ってませんよ。
僕が自分自身の悩みとして抱えているものをこの著者がさらりと語っている、自分の中の2つの態度についての考え方にぼく自身を投影してみてこんなことを述べているわけです。
あはは…何を言ってんだか自分でもよく解りません😅)
最初手にしてパラパラめくって、不遜にも読み捨てようと思った印象は読み進めるうちに全く変わってしまいました。
音楽に関する文学?に触れたいときはこの本を手に取れば良い。安心して純粋に文学に浸れる、、舘野さん、ありがとうございます、、舘野泉は詩人だなぁと思いました。
詩人がご自身の専門の音楽について語れば技巧は二の次、三の次になる、演奏する心を聴く態度が清々しい、優しい。
ろうそくを灯し楽しむ夏の宵
晩酌を楽しむ1時間前にろうそくを灯して傍で寝転んでその灯をずっと見つめていました。こんなこと初めて。
直径5センチ深さ1センチ位のアルミのカップに入ったろうそくを
2時間近く楽しんで残り少なくなってきたので寝る前に消しました。
(今日はもしかしたら雨が大した事なければ午後から甥っ子の1人が訪ねてくるかもしれない。数年ぶり?)
蝋燭の炎を一時間も見つめているいちまるさん。何だか心を動かされるシーンです。それで思い出した、というか連想したことを今日はたわいもないお喋りの話題にします。
もう50年近く前ですが、社会人になって最初の職場であったインド人にプラディープさんという、当時の私より3,4歳年下の男性がいました。とってもハンサムですらりとして、肌色は褐色だけど顔立ちはアーリア人的、ということは欧州人に似ているな、と思ったら、インド北部のパンジャブの出身とのこと。この辺の人はアーリア系で南インドの人たちとは異なる印象です(南の女性は小柄で可愛らしいのですが)。北の人プラディープさんはその南インドの州の工場の長で、それは社長のお父さんがインド全国に所有する工場の一つでした。いずれ跡継ぎで社長になるので、その修業の一環として南インドに送られ、そこから日本に派遣されていたようです。
お父さんの会社は日本企業との提携で電気製品を作っており、プラさんが日本に来たのは当時の東芝マツダランプで研修するためでした。面白いなと思ったのは、ヒンズー語でプラディープというのは「蝋燭の灯」のことと彼から聞かされたことで、へええ、インド人ってロマンチックなんだな、と思ったのですが、インドにこの名前は結構あるみたい。日本でも「光」って名前よくありますものね。光源氏はプラディープ源氏。
それから何年かして、度量衡の標準と較正(キャリブレーション)の仕事で物凄くお堅い通産省の組織に数日通ったことがありました。重さとか長さとか体積など度量衡の最初の標準はパリのナントカ院が管理していて、その下に二次標準があり、さらにその下には三次、四次とあってそのレベルになると民間企業で使われているのですが、下位の標準であっても原器とずれていてはいけない。誤差の範囲がきびしく定められているのですね。
さて、測定されるものの中に照度がありまして、警察などが風俗営業の明かり(妙な劇場ばかりでなく、暗すぎる喫茶店も猥褻罪になるんだって)をチェックするのに使う照度計の精度を検査・較正するのです。それでね、その時に比較のために国内で使われていた標準が、当時日本ではもっとも水準の高いマツダランプの電球だったの。これにはびっくり。マツダは松田じゃないよ、マズダのことだよ、という話はどこかで聞かされていたのですが、これ、ゾロアスター教の光の神アフラ・マズダに由来する名称だったのですね。だからMATSUDAと書かずMAZDAという綴りで、これは自動車のマツダの場合も同じです(ドイツ語ではZはツと発音するから無理がない)。
そうか、インドの光君は光の神様の会社で研修を受けたのか、と感心してしまいました。でも東芝さんが扱っていたのは白熱球だったので、その後LEDその他の新しい電球が市場に出たこともあり、東芝マツダランプという会社はなくなったんですって。今頃どうしているかな、プラディープ君。彼も70歳を超えて、ご隠居さんかしら。