6月19日(水)
雨落ちる空見てごろ寝梅雨さなか
ポリポリとせんべ噛んでる梅雨寒し
昨日は一日雨。
雨は落ち着く。2階で読書。少し寒いのでカーディガンを羽織る、、なのに素足。
お煎餅とコーヒーで昼食はなし。
「職業としての官僚」日本の官僚の実像…現状が要領よく把握できるように書かれている。
ビックデータを扱い慣れている官僚の優位さが揺さぶりを受けている。
つまり誰でも情報にアクセスできるネット社会が官僚にもろに影響している。
ビックデータを扱い、組織を通じて国を動かすという特権的な緊張感が持ちにくくなっている?
ビッグデータを誰でも扱える時代に加えて、官僚同士の切磋琢磨の場面が少なくなってきているらしい。つまり雑用が増えたってこと?
未来を誘導するプライドが持ちにくい状況、だとすれば…それは問題だ。
政治家の国会答弁の補佐役に陥っている実態は第2章以降に出てくるのかなと期待しています。昨日はここまで。
(この頃本を途中で投げ出しても平気なようになりました。
きっと今までの習慣が崩れつつあるのだと思います。欲しがっている知見を本に求め、できることを探す。行動に結びつける妙薬がすぐに得られるわけはない、世の中の仕組みが複雑に入り組んでいるから…という逃げ口上を用意しているので本とも距離がおける。
妙案を本に求めるだけの行動が1番良いとも思えないと思っているのかなと思います。誰かが考えてくれたことを自分の頭で反芻しできれば吸収したい。それをもとに考えたいと思うその根幹が揺らいでいる。
その意味で読む「集中」を考え直したいと思っているのだと思います。そもそもその「集中」が心もとないし、なんで「集中」にそれほど力点を置いていたのかがわからなくなってきました。
結果として集中してしまうのは自然で良いなと思うのですが、、集中して読むぞというその気合の入れ方がそのものが…不自然なくらいに安易。
引き込まれてゆくその感じを大切にしたいなとは思いました。何かを探り当てようとしてセンサーを働かせている感じを大切にしたいと思います。だからと言って、集中していればセンサーが働くというわけではない。
ところで…僕らは全員開発途上の道半ばで倒れるのが普通、花道が用意されているわけではない、それが人生と思えばいつ頓死しても後悔はない。そんなことも考えているのかなぁ。つまり慌てて集中すれば何かの解が得られるわけではないと諦めている。
なんでこんなことを考えているか…バトンタッチして次の世代に引き継ぎたいものは何か…そんな大それたものは何も僕が考えなくてももちろんいいわけで、「しかるべくところ」でしっかりと未来予測をして国の舵取りをすれば良い…それが官僚と政治家の役目とぼんやり考えてきたのではないか。一般庶民はそういう役目から解放されている…という誤解。
でも、もうぼんやりは許されない…
ぼんやりしていると置いてきぼりになるだけではなく、望んでもいない状況になる可能性もある。
そんな時代が来ていることを皆が自覚しなければならない時代。
いろいろな人が集まって、こんなことを話したかったなぁ…葛飾区役所の広報課に民主主義について考える座談会を載せてほしいと先日頼んできましたが…その件について一昨日、先方から電話がかかってきて…この座談会はどなたか専門家が出るのでしょうかと聞かれた。
もちろんいませんよ…ざっくばらんに、投票率がなぜ落ちているのかをいろいろな世代が集まって四方山話をする会ですから…だんだん声が小さくなる。
ややこしい話は交通整理のために専門家が必要…そんな思考回路も固定されている、、専門家に任せろ…専門家って誰?
それに対する反論をきちんとまとめていなかった。
専門家に任せておけないという直感をきちんと説明しなければならないのに、、。
政策の立案チームはどんな形が望ましいのか、、それを生み出すため、日々それを考える母集団のサイズが問題、とは予想をつけている。
遊んでいる奴がたくさんいても良い…次の第一線の予備軍という意味で。
フリーライダー(仕組みができたら、うまいことその仕組みを使いこなす…仕組み作りそのものには関わらないちゃっかりタイプ)であって良いという意見ではないです。
ぶらぶら遊びながら…冷ややかな目であくせくしている連中を分析する役目という意味の予備軍です。
誰かに任せていて自然に何かが生まれるわけは無い。
そこのところの直感をきちんと説明できなければ何も変わっていかないだろう。
そこが問題でそこを突破するそもそも論を僕らが考えなければいけない時代なんだよ…そう怒鳴りたかったけれど…お腹が空いていたので…というのは冗談で僕の考えそのものが何も煮詰まっていないことを思い知らされました…この件ちょっと保留にしておいてまた相談に乗っていただきますと言って電話を切りました、、情けない、、一市民としてシビルプライドが持てない、、なんちゃって… いつもの、かっこつけぶりっこ。
最近は国民の知的レベルが高くなっていますからね。戦後の教育を受けた人がほとんどになり、家とか家督とか長子がどうの、という桎梏からも外れて、小学校以来学んできた民主主義の信奉者が多数派。
そこへ近年の情報技術の進歩で、高齢者層に属する人もそれなりの社会観・世界観を持っている。みんながそれなりに賢いというか、利口になると、戦後ずっと言われてきた「日本は優秀な官僚でもっている」という説も、どうかなあ、さほどでもないんじゃないの、ということになる。
アフリカや中東の後進国を見ていると、多くの民が腐った欲深い権力者や政治家にいいようにあしらわれていることに気がつかないでいるのにイライラしますが、国民のレベルを低く抑えることが権力者層の狙いで、例えば国連からの厖大な援助資金で一握りの人間が潤って国民にはさっぱり還元されないことも知らずにいるようにしている。かくいう国連も、仕送りしたよ、義務は果たしたよ、で終わり。
でも、今は世界の動きを知りたければスマホなどである程度分かるはずなんだけど、関心を向ける方向が違うのですね。そして、見えても見ず、聞こえても聞かず、になる。インターネットの繋がりも民の心に知的好奇心や批判精神を生み出すことはできない。やっぱりちゃんと学校に行って、まともな先生や親や友人とあれこれ話し合って、ということがないと、不毛のままなんですね。