6月8日(土)
昨日は朝から…選挙/投票についてざっくばらんに語る会…という名前で
「選挙/投票について語る座談会」というのをかつしか広報に掲載申し込みをしてきました。
政治宗教に関するものはメンバー募集ができないということでしたので、座談会ということで申し込んでみました。もちろん前例がないわけで掲載されるかどうかは後ほど連絡があると思います。
担当者は受け付けるかどうか困っていましたが事情を説明して政治活動や宗教活動とは全く違うということを口を酸っぱくして言ってきましたがどうなることやら。
家に戻ってから、取り寄せておいた本をしっかり読み込みました。
(読んでから広報に座談会の掲載の申し込みをすれば良いのですがそれでは決心が鈍ると思いとりあえず申し込みしました)
黙殺(報じられない無頼系候補たちの戦い):畠山理仁著:集英社2017年11月第1刷発行
この本に取り上げられたのは、いわゆる泡沫候補(実態を知る著者は尊敬を込めて無頼系候補と呼んでいます)が多いです。
候補者の中には実績のある政治家もいて、その優れた立案も実績も評価される十分な時間が、短い選挙期間では投票する人に浸透しにくい事実。
マスコミが知名度のある候補者にどうして時間を割いてしまうマスコミの生態。
この辺を知っておくだけでも選挙に興味を持てるか持てないかの分かれ道になりますね。
選挙期間が短すぎて選挙システムそのものが出だしから公平はありえない。
都知事選挙が始まりますが…供託金は300万、得票数が一定数得られなければ没収。1万カ所以上の選挙選挙候補者掲示板にくまなく貼り付けようとすれば手分けして貼り付けるのに何百万とお金がかかる。候補者の自腹だ。
全て映像で掲示するようにすれば一瞬のうちに広報できる、、普段使わない時はそこを広告媒体として使えば良いという名案がある事はある。
ネットは突破口になるだろうと思いました。勇気ある候補者たちに花束の代わりに政策のアイデアを寄せる方法も真面目に考えることにします。
たった1冊の本でほんの少しだけ僕も行動できました。
自分が立候補することで…あんな奴でも立候補できるのなら俺も立候補しようと思ってほしいと語る立候補者さえいます。
思いは僕だって同じです。立候補する勇気はない、だからといって政治を無視する勇気もない。
実際に中身のある実行可能な政策も、マスコミが取り上げる有力候補者の影に隠れてしまい、有権者に精査される機会もなく、、それでもへこたれずに挑戦し続ける候補者たち。
この本のおかげで1人は確実にこれからその人物を知らなくてもその政策を読む読者が増えた、、このぼくです。
荒唐無稽な政策なんかありはしない。なぜそう考えたかを探っていく作業をする人が少ないだけと僕は思いました。僕より勇気のあるその人たち、熱い思いは本物。
政治家を目指す原点となった想い、実はそれこそが守り抜くべき最終目標でしょ。
マックスウェーバーは…学生たちに向かってなぜ官僚や政治家が初志を貫徹できないかについて講演をしていますね…
ざっくり言ってしまえば現行システムの圧力、つまりは先輩政治家たち、先輩官僚たちの圧力、今も全く変わっていないと僕は思いました。現実を知れば知るほど現実を変えていく困難さがわかっていく…
政治に限って言えばそこをあえて切り開いていくためにこそ政治家が必要なのに…。
真面目に真剣に日本を考える人がたくさん増えれば選挙も投票行動も確実にもう少し盛り上がるだろう。
身近な例で言えば2,000億の葛飾区の予算に注目することから始めれば良い。
今年度分はどう配分されたか、今ちょっとチェックしただけでも葛飾区は60ページ以上に及ぶ細かい予算配分を公開している。
興味のある分野だけでもチェックすることから勉強していこう。
インターネットが普及している今普段からもし政治家になったらやりたいことを冗談でもいいから発信しておく、こんなことただでできる
そんな無駄に見えることでも無駄になる事はない。
自分で考えてみれば人が考える政策についての見方も変わってくると思う。
この発信そのものだって、そうだと強弁しておきたいです。
先ほどからごちゃごちゃと並べ立てていますが、、とにかくウンとかスーとか言ってみる、、
たとえ立候補しなくてもです。その方法はネットがこれだけ浸透した今はたくさんあると思います。
そうやって重ねていく予行演習には深い意味がある。
そんな地味な活動だけが自分を変えられる。人に呼びかける前に自分が変わってみせる。
今回申し込んだ座談会が不発に終わってもたった1人でも仲間が増えたら嬉しい。
実はそんな思いを区の窓口の女性に喋っていたのです…この僕が…
その一部始終を少なくともあの職場の方たちは1ミリ位は理解したと思いたいです。
何か知らないけど変なおじさんが何か言ってる…自己満足…昔から得意だった。
そういう気持ちにさせてもらえたこの本、蔵書にしました。
本は人を動かしますね。
昨日夕方4時ごろ、石膏像が届いたのも知らずに本を読んでいたので、留守宅と思われ、持ち帰らせてしまいました。悪いことをしました。
戸を少し開けて中に人がいることがわかるようにして張り紙もしておきました…「耳が悪いので大きな声で戸を開けて呼んでください」
配達通知が置き配可能となっていましたので置いていってくれるものだとばかり思っていました。
再配達は晩酌をやりながら待つことにしました。待つのは悪い気分ではない。
届いたものを早速ひもときチェック…満足。先方にもそのように連絡しました。
いまどき、石膏像のスケッチからやりたい人がいるのかどうかもわからないですがどちらにしても僕の一から出直しのための準備はこれでひとまず完了です。
一から出直し塾なんてのも面白いかも、、あはは🤣
男女同県→男女同権
少し前のことになりますが、私が同じ年代の友人たちを相手に怒りをぶつけたことがあります。60年代から70年代にかけて学生運動がさかんで、大部分は甘やかされた世間知らずの坊やの主張という印象でしたが、政治・社会に対する彼らの不満に共感し理解できる部分もありました。当時なんて、どの政治家も、右を見ても左を見ても、非近代的な狸ジジイばかり。それで、わがベビーブーマーの世代が40代・50代と社会の中堅になったら、こういう苔むした爺さん連中を追いやって政界に新風を吹き込むだろうと思っていた。ところがその元運動家たちが中年になってみると、一世代前のクソジジイ(御免なさい、下品で)と全く同じ言動をする。これは政治という魔界がそうさせるのか、しかし若き時代のあの抱負と志はどうなったんだ!!と1人で息巻いて周りを辟易させました。
いまだに古い体質と言えば、戦後の首相や政府の要人を見てみると、その多くは薩摩・長州系なんですね。明治の元老はもう圧倒的にこれらの地域の出身者が多いのですが、戦後だって、岸とか佐藤とか安部なんて全部一族じゃありませんか。小泉とか鳩山なんてのも相変わらずウロウロしているし。
どこの国にも、この20世紀・21世紀でさえ、すぐにダイナスティというのができてしまう。アメリカだってケネディ家が今も権勢を誇っているし。先日インドの選挙があってモディ首相の続投が決まりましたが(予想に反して大部票を減らしたけれど)、それまではネルーから娘のガンディ―、その息子、さらにその孫へと受け継がれていることが不快だったので、特にあのようにカーストがものをいう国では名門・門閥と縁のない人間の登場は好ましく感じます。しかしそれにしても、14億人を統治するなんて、もうヒンドゥー、イスラム、キリストその他八百万の神の力でも借りない限りとても無理ですわ。