5月31日(金)
ベテラン職人の腕と勘とセンスを数値化して機械に置き換えたり、建築で言えば、コテで仕上げた壁が乾くのなんか待っていられなくて、乾かす必要のない部材を使って組み立てていく省力化工法が主流。
ノコギリや釘やノミ、カンナ、、仕口がどうのこうの、、何千年の歴史があっという間に消滅(文化財の保護のための技術はかろうじて残っている)。
言わずもがなですが…掃除洗濯針仕事…早晩趣味の分野になるだろう。
古い人から新しい人へつなげる伝統がもう顧みられない(一生懸命つなげている人がたくさんいるからなんとかまだ持っている事は承知)。
もっと古いことを言えば、狩猟生活から農耕生活に移り変わったこともまた同じ歴史と強引に言ってしまえるのかな。文化の上書きによって習慣そのものが変質していく、まぁこの際、進歩していくと言っても良いだろう。
自動車が生まれて馬が必要なくなって、トラクターが田んぼに出てきて牛もいらなくなった。
人間が馬や牛から受けてきた教育?付き合いはぷっつり断ち切られた。
人間と一緒になって働いてきた馬や牛から教わってきた事は何か?
(そのかわりサラブレッドは競馬の人気を支えているし、牛は乳牛や肉牛として健在、、いつまで存在するかは不明。
えげつない言い方をすれば単なる商品に成り下がってしまった。人間が商品にならないように願うばかり。既に商品になっていたりして… 商品と競合させられる人間…笑えない現実。
いずれ牛乳や食肉に変わる代替物が出現すると思う、、ま、適当なこと言ってます)
人間が親しんできた動物でこれからも生き残っていくのは愛玩動物としての猫と犬ですかね。
他のほ乳動物を理解するために猫や犬は欠かせない…ただ飼い猫、飼い犬が大多数の今の状況は犬や猫の方で人間に合わせて性格を変えてくるかもしれない…まぁこれも先方にとっては余計なお世話。
えーと…数値化できないものをとりあえずあげてみます。
「情(じょう) ≒感情」に関するものは全て数値化しにくいでしょうね。
情緒、情感、、愛情とか懐古の情とか、憎しみ、怨念、嫉妬、なんかもこの際、情の仲間、、
でも多勢に無勢、、いずれそういうややこしいものは、隅に追いやられる、数値化できないものは管理上、システムの障害になりやすいからだ(話を進めるために適当なことを言ってます)。
専門化、分業化を突き詰めれば数値化、数式化する方が格段に扱いやすくなる。
さてとここからです、、例えば情緒なんていうややこしいものを扱うのは心の仕事、、何とかなりませんかね、、つまりそのデータとして加工できないか。
例えば1つ取り上げて、、懐かしさは何とかなるでしょうか…おそらくは生まれたときの環境で決まり。
砂漠の民は砂漠的感情。どちらかと言うとじめっとした地帯に育った日本人は日本的感情(とりあえずメモしているだけですのでざっくりした言い方はご勘弁)。
四海に囲まれた海洋民族は精神の帰属先は海。山岳民族は山。すげえ大雑把。
めんどくさそうなのは人間が遺伝情報として持っている「懐かしさ」、あるのかな。
これは探求に時間がかかりそうだ。良い方にも悪い方にも引っ張られそう。
問題はサンプルをどこに求めるか?
旧人類は全滅している。
新人類は正体がまだ知れない。これから新しい環境で生まれてくる人間はその環境で育つ。今の環境基準?で将来を占ってもあまり意味がない。
以上、「人間もこの先、生き延びれば長いあいだには情緒も変わるかな仮説」のためのおおざっぱなプロット、、まぁ今日はここまで。
(以前は人口の本当の1部のさらにその1部がもしもの時の場合のリスク管理をしていたと思うのですが(例えば大災害が起きると同時に他の国と交戦状態になるなどという極端な場合に備えて準備をする部署)世界全体の利害関係がこんがらかっている場合、、いろいろ絡んでくる要因が同時発生しているわけでその交通整理は誰がやるんだと言うことです。
これを一般市民だからといって人任せににしていいもんだろうか?
メディアはそれほど信用できるのか?誰に向かってモノ言っているのかわからないことが多くなってきてしまって…最近テレビも見ていません。
(僕の情報源はもっぱら本ですね、、魅力はやっぱりわかりやすさです、、もちろんわかりにくい本もたくさんあります…ですがそのわかりにくさこそが問題だという発見もあります。
それこそが言葉が織り成す文章の力だと思ってます。
その、わかりにくさを情緒で判断してもいいもんだろうか、、
はたまたわかりやすい理屈で情緒を切り捨てたり四捨五入して判断して良いものだろうか。
情緒ってそんな情けないものだろうか。そんな底の浅いもので成り立っているのかな。
そうかもしれない。脳の旧皮質?人間の原初の頃の感情システム。
待てよ…こうも考えられないか…情緒こそは人間らしさを保ってきた砦。
それなのに情緒は人為的操作で簡単にドライブをかけられしまう。
情緒が良い意味の情熱の火種になることもあれば、憎しみを増幅し、人々を巻き込んでいく事例もあることを僕らが知らないわけじゃない。
芥川龍之介が…人間はマッチ棒に過ぎない…だが取扱注意と言ったのはまさにそのことではなかったか、、記憶って意外といい加減ですね、、正しくは↓
※人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。、、芥川龍之介『侏儒の言葉』
情緒が屁理屈で押さえつけられてしまった経験を日本が持っていることを戦争を実際に体験していない僕も人づてに聞いて知っています。
長いものには巻かれろの長い歴史がある日本ですが、それはもう許されなくなっていると僕は勝手に考えています。「長いもの」の正体が怪しくなっている。
自分の身の回りのブラックボックスが増えすぎちゃって訳が分からなくなって、結果、自暴自棄になって判断を見誤る可能性が頭に浮かぶ。
だからこそ守るべき大切なものが何か、、そのありかだけでもわかりたいです。
どうせ暇なので穴倉にこもって華奢な頭をせいぜい働かせたいと思います)
短期のバカンスで出かけた先は農村で、こちらでも近所には農家があるので、どうして村の人が別の村で休暇を過ごすのかよく分かりませんが、うちの亭主は普段は売り上げとか資金繰りとかの心配をしなければならないので、どこかの村の宿でのんびりという時間が必要みたいです。
ドイツに来て一番大きな自身の変化は動物への自然な関心でしょうか。犬・猫はもちろん、鹿や狐もいる。面白いのは、農家の数が急激に減っている一方でhobby farmerと呼ばれる人たちがいて、別に農業に牛馬が必要なわけでもないのに趣味で飼っていたりします。羊や山羊も。(よく見ると動物の眼ってとても可愛い。)いつも大事にされている環境からか人間を恐れることも無く、何だかえらく図々しいと感じることも。
何かの番組で言っていましたが、動物小屋とか厩舎って結構汚いですよね。ドイツ人はまめに清掃していると思いますが、それでも糞尿があちこちにある。そんな小屋や、鶏糞が散らばる庭で子供たちが時に裸足で駆けていたりする。それが人に免疫力をもたらし、特にアレルギーの抗体を増やしてくれるのだそうです。だから田舎育ちの子にはアレルギーが少ない。
あるとき親戚の一族と会った機会にその話をしようとしたら、彼女たち母娘がアレルギー自慢を始めた。グルテン・アレルギー、ラクトーゼ・アレルギー、ナッツ・アレルギー。要するに、自分たちは都会育ちのインテリ層なので、免疫力のない典型的な「文明人体質」と言いたかったらしいです。