5月26日(日)
昨日と今日は近くの四つ木と渋江、二つの白髭神社の本祭り⛩。
渋江白髭神社の境内でキッチンカーが出たり屋台が出たりで大人たちは大忙し…僕はその横を買い物帰りにチラッと見て素通り。
今日は多分神輿(みこし)も出るんだろう、、ことによるとちょっとだけ山車(だし)も出るかもしれない、、先日予行演習してたからな。
神社の境内に急ごしらえでできた売店に子供が群がるように
神輿が出るだけで子供たちは非日常に出会える、、
そういえば僕は今まで祭りで何かを買い食いするなんて事はありえなかったし、神輿を担ぎたいと思った事もないけれども、、この年になってやっと非日常の意味が少しわかってきた。目先が変われば気分はぐっと変わる。
運営しているのはどちらかというと高齢者がほとんどとお見受けした。
賑わいが近くにある事はとてもいい。僕は感じるだけで充分。おこぼれに預かっている気分。
と、突然ここで世の中に残したいものを考え始める。
日本の風景で残したいものはやはり神社かな、、あとは、、
檀家制度が継続する限りお寺さんも形を変えて残っていくだろう。
僕の身の回りでは墓じまいをする人もちらほら出てきていて、檀家のメンバーも交代していく中、寺の経営も大変だ。
寺に特に協力もしていないのに何らかの形を変えて継続を望むこの矛盾。
今流行の兆しが見える集団森林葬の舞台装置としての寺、、単に風景として見栄えがする、心理的に落ち着くというほどの趣味の分野のことかもしれない。
檀家制度、なんてそもそもお坊さんたちの単なる思いつきでスタートしたんじゃなかったっけ?
日本で残っていくものは他に何があるだろう?
あっ、、希少価値で行けば日本国憲法、、かな。建前と本音の使い分け。
世界中に核弾頭が5千個もある現状を鑑みれば、バランスを取るためにだけでもその平和憲法のネームバリューの希少価値、今こそ再評価できると思う。目立つ事は良い事だ。
平和憲法で「脅かす」。
軍事評論家が考えるパワーバランスがいつも正しいわけではない。
世界中の矛盾が人々の頭の中を上書きしていく、、専門家はそこまで読み込めないかもしれない。
貧困地域を少なくしていくことが平和には欠かせない。難民を受け入れるだけが平和活動ではない。
自立を助けることを積極的に考えてみても面白い。自分の事はダメでも他人を助けることにおいてパワーを発揮する人はたくさんいるだろう。そういう国があっても良い。そういう国だとアピールすれば良い。
自分の頭の上の蝿も追えないくせに人のことに関わっていてどうするんだ、なんて言う人もいるかもしれない、多分勘違いだと思う。
情けは人のためならず…正しい意味はどういうんでしたっけ?場合によっては意味を変えてでも積極的に利用する方が良いと僕は思います。
自立できないからとりあえず人を助けて自分も助けてもらう、ギブアンドテイク、この意味は深い。
獲った魚を相手に差し出すよりは魚の釣り方を教える方が永続的な手助けになる…これってユダヤの教えでしたっけ?
(プールでマイペースで泳いでいると時々お声がかかる。
昨日は女性に…平泳ぎを泳いでみてくれと言われた。僕は言われるままに泳ぐ。
また他の男性に…水の中ででんぐり返しができるようになったからこれで良いかどうか見てくれと言われた。
僕と特に仲良くしたいわけではない…チェッカーになってくれと言っている、、今の人たちだなぁと思う…年齢には関係ない。
ご本人たちはある結論をつかんでいる、その確認を僕に求めているんだと思いました、、ピンポイントで確認すれば良い段階まで詰めてから質問する…それが分かるので…質問をされる方も大いに気分がいいです、、って、すごい偉そうですけど実は僕も人に聞くときはそうしています。
(あとでジャグジーの中で…先程の平泳ぎの演技をしてくれと頼んできた人に会ったので…(いい年をして)でんぐり返しに夢中になるなんて男ってバカでしょって笑いながら、言ったら、、女もバカよ…と言っていました😅)
誰の教えだろうといいものは利用する…軽薄な位に…これ日本人絶対得意だと思います、ここポイント…結構ちゃっかりしてる国民性だと思います。
ところで、、突然ですが…ナメクジって2ミリ位の卵から成長すると、調べたら出てた。
久しぶりに台所の流し台のゴミ箱の中に発見した。
カタツムリの仲間?オスメスの機能を一体で備えているため1匹でも再生産してゆける、、なるほど。
地球上に君臨して動物の王としてうごめくぼくら人間はそうは簡単に再生産できないという意見がある一方で他に楽しみがないか、その楽しみがあらがえないほど面白いので結果として子孫が増えていく現状もあるだろう、、ちょっと無理してこんな言い方をしてみました、、この話題これでおしまい、、とらえどころのないナメクジ談義。
え〜、、(話をつないでいく)、、日本人は一見お人好しで非常にわかりやすいと思わせておいて付き合っていくとなかなかやり手というイメージを持ってもらうのがその後の付き合いを維持するためにも一番良いのではないか。
相手になめられないナメクジのような存在。ちょっと気持ち悪いんだけど中身はどうなってるか探ってみたくなる…恐いもの見たさの効用?
お人好しで単純そのものに見えるけれども付き合うと結構、複雑でやり手、と徐々に相手に理解させる。
つまり、その、じつは、、一筋縄ではいかないけれどもきちんとしたルールがあると相手方をブレインウォッシュ/洗脳していけばいいわけではないでしょうか
とにかく問題を解決することに夢中になるもいいけど、、付き合う相手にも、すぐ取り組める課題をたくさん段階的に設定することもそれと同じくらい重要なことだと昨日考えていました。
まぁ職人だったら誰でもこういう考えを持つのではないでしょうか…付き合いたくない奴でも一緒に仕事をしなければ仕事は完成していかない…また、適当なこと言ってまーす
普段着の下はフル装備?の仕事着でいつでも出動可能。
お人好しの日本人はそのぐらいでちょうどいいかもしれない。アンテナを高く掲げて行動のためのセンサーはいつも最新のものを揃える。これ常識ですね。
基本的に暇人な僕は、文化とアート、、についても考えている(考える事はただだからだ…安上がりが1番気楽。
文化とアート…詩人と文学といっても大した違いは無い。
どちらにしても人を動かす。ほんの1ミリずつ動かしたって長い間には結構動いたことになっていたりして。
それが本当に人を動かすコツかもしれない。ちょっとした音符のアレンジで人を惑わせて人の気持ちの方向転換をしてしまうように。
僕らもそう仕向けられていると思う位の懐疑的態度または慎重さを常識にしたい。
(積極的に自分の遊びを遊ぶ人がもっと増えれば世の中はもっと面白くなると思うなぁ。
積極的に遊ぶってどういうことだろう?自分で言って考え込んでしまう。何を面白がるかなんて人それぞれ。
今ぼーっと身の回りを見ていて世間の、その面白がり方が面白くない。だから孤立して自分の殻に閉じこもる。今のところそのほうが面白いからだ。
とりあえず僕は僕の殻に閉じこもって僕の遊びを遊べばいい…まずはそこからスタートです。
今年はこんな堂々巡り。お見捨てなく…)
一昔前、ラジオもテレビもなかった時代には、村祭りや町のお祭りは子供たちには待ちに待ったイベントで、大人には特別な社交の場だったのでしょう。私の村でも11月下旬に収穫を祝うお祭りがあって、神社の前に夜店が並んだものでしたが、「収穫」の意味も今は違ってきていて、はて何を祝うのか。鎮守の森なんて単語も今の子は知らないでしょうね。
森の話で思い出しましたが、渋沢寿一という農業専門家が最近「森と算盤」という本を出しました。発刊はほんの昨日だったようです。(私はこちらでは入手できませんからいつでも同じことですけど。)かの渋沢栄一の曾孫だそうで、そのこともこの本が注目を浴びる契機になったみたい。
鴎外の血筋にあたる小堀鴎一郎氏が『死を生きた人々:訪問診療医と355人の患者』という著書を世に出したのが5年前。こちらはかの文豪・森鴎外の孫ということが一つのセールスポイントになったようですが、この方にせよ、渋沢寿一氏にせよ、その本の内容は祖父・曽祖父の七光りなどなくても立派なもので(「森と算盤」の方は読んでいませんが、Youtubeで寿一氏の講演を聞きました)、出版社としてはその祖先の存在が販売促進に繋がるというだけの話。
それによって庶民が医療や農業に興味を抱き、現代に生きる人間の重要な課題を共に真剣に考えるようになれば、ご先祖も「ああ、いいともさ、ワシの名前をジャンジャン使っておくれ」と喜ばれることでしょう。
カタツムリね。これ我が家での私の綽名です。私はサッサと動く方ですが、亭主と一緒に歩くと身長差が35センチで足の長さが全然違うので、だんだん距離が開いてふうふう言いながら付いていくことになります。それでドイツ語でシュネッケ、日本語でカタツムリとなったわけです。夫がこの日本語を使うのを聞いた日本人がその理由を知って、「それならカメの方が簡単じゃないか」と言ったので、今はカタツムリ・カメと二つの名で呼ばれます。カタツムリって単語、面倒なのにせっかく頑張って覚えたので愛着があるみたい。ところで、ドイツ語ではナメクジは「裸のカタツムリ」と言います。