5月7日(火)
(今ぐずぐずこれを書きながらざっと読み直してみたら…何が言いたいのかわからない…こういう文章が嫌いな方はというか、、呆れて離れていくからまぁいいか…というわけでお暇な方は読んでください)
昨日、本をめくりながら…本を書くほうが本を読むより大変という至極当たり前のことに気が付きました、、もちろん一般的な態度の気楽さのことです、、読み手の方は気に入らなければ中断することもできる。
真剣勝負のような読書ももちろんあると思います(論語読みの論語知らず、は書き手と読み手の真剣さの違いだと思います)。
そう考えて、ちょっと前の僕みたいに先を急ぐようにして本を読む事はやめました。手元にある本だけでもきちんと読み込むためには相当な時間がかかる。
今までだったら、、読むことが仕事のように思えて多分一生懸命1日に読む量を決めながら、そんな中途半端な読書を続けていたかもしれない。
今はそれはありません。
多分何十年と自分自身を縛ってきた強迫観念が少しずつ、はずれてきたせいもあるからだと思います。先が見えてきた効用?
強迫観念とは何か。
何か追われているようで何に追われているかもわからずに何かをせずにはいられない…
(この定義が正しいかどうか強迫観念の定義を見る気はありません。
知らねばならぬという強迫観念が少なくなったからだと思います。知ろうと思っても理解が及ばないこともあると感じることも増えてきたからだと思います
ある人間をコントロールしようと思ったら強迫観念の塊にしてしまえば、やすやすとその人にドライブをかけられる、つまりその人の方向付けができる。
でも僕は降ります。
僕はこんなことがわかるのに何十年もかかってしまったのだろうか?
まぁ仮にそうだとしても…そこのどこにも問題はない。
強迫観念に支えられて一生懸命サボらず働いてきたのだとも言えるからだ。
何かせずにはいられない気持ちが社会性を帯びれば自分の身の回りの環境が少しは、良くなることもある。
そう考えれば日本人の律儀さ勤勉さこそ国の財産だと思える。
(いま、これが言いたいがためにその前に理屈をつけた)
財産は放っておけば目減りする。どうしたらいいのか。1番いいのは資産をまめに回転させること。
(つまり勤勉さが財産だというのはならその財産は回転させなければならないとこれから展開していきます)
昔から言われている豆腐屋の例。豆腐屋は1年365回転、作って全てその日のうちに売り切る現金商売。
日本も食料を国内で生産しすべて日本で消費し切れば良い。余剰分は外国に売り付ける。高品質はわかっているので必ず売れる。
(はいここから支離滅裂になります)
日本人そのものが売りになる。
勤勉でごまかさない性格は高い商品価値になる。まさに人材である。
国内にいるより、外国での商品価値が高い。外国で得た所得の一部は日本に環流する。
場面場面でマメに稼ぐ。実はこれが1番確実で手っ取り早い。豆腐屋を見よ。まめな日本人向き。
ごそっと稼ぐなんて日本人の性に合わない。
ごそっと稼いだって使い途がわからない。
(かつて日本が、ごっそり稼いじゃって使い途が分からなくてニューヨークのビル買いあさっていたこともありましたっけ)
みんなで少しずつ稼ぐ…これが1番確実だ。だから豆腐屋になれという話ではありません。
ところでこれそもそも何の話だっけ?
あ、強迫観念、、徳川家康…農民は生かさぬように、殺さぬように、、いつも手を抜かずに強迫観念で追い立てる、、何たる冷徹(それだけ窮鼠猫を噛むの例えの通り、農民パワーを恐れていたのかもしれない)。
一方農民(一般人民と言い換えても良い)のほうは、別に支配者が変わろうともやることは変わらない。食うために働く。働くために食う。他の動物と同じように。腹が減ったら狩りをする。
(支配者、コントローラーが能無しだったら支配者を変える)
働いて腹が減るからご飯がおいしい。おいしいから愉快になる。愉快になるためには健康が一番。
(健康だったらお金はいらないかというとそういうわけにはいかないからお金も稼ぐ。稼ぐに追いつく貧乏なし。働かせるための格言なんか多分探せばいっぱいあるだろう)
達者が何よりとフーテンの寅、車寅次郎も言っていたような気がする。
健康で楽しいことがとりあえずどなたにとっても一番に決まっているので…強迫観念に追い立てられることもなくなる。
(やっと本題に戻ってきた)
健康を維持することが強迫観念になっているのは単なる勘違いの悪習慣、本末転倒だと思います。
(と、まあ、昨晩寝る前に、いろいろ考えて、今、夜中に起きて…スマホに足りないものを見つけた。鏡が付いてない。写真モードにすれば鏡の代わりになるけれど、それとはちょっと違うような気がする。
どう違うかはこれから考える。
似ているけど違う。女は鏡を携帯しているのか?間違いなく携帯していると思う。男はどうだ。携帯すべきだと思う。
これからは見てくれが今まで以上に大事になるだろう。自分自身が商品になってくる時代。おちおちしていられない時代。
はいはい私はこれこれこれだけ努力していますとアピールしていく時代。時代もそれを要求している。
はい僕はそこに入りません。
ご迷惑のかからないように周辺で暮らします…そういう人も増えてくると思う。本当の2極化。
リタイヤするのはいいけどお荷物になるのはやめてください。そう言いたい世代は多いだろう。
はいはい左様でございますか。それについてはまたゆっくり考えたいと思います。
二重人格が要求される。場合によっては三重人格も要求される。
要求されればそれに応えてきたのが団塊世代。時代が要求するものにどんどん自分を合わせていった世代。
時代そのものの「作り」が雑だったので隙間もたくさんあった。
今はどうだ…それは、それとしてこれからどうするかも、これから考えることにします。何もかもこれからだ。
そう考えたら少し生きる勇気が出てきた。
(文章をこねくり回す事は…僕の習慣なので…それは良いことだと思ってまだまだこのコーナー続きます)
※僕の文章はやたらとカッコ(…)
が多い、、言い訳しながら文章を書く…まさに僕の生き方そのものだ、、あはは🤣
日本人こそが財産!ドンピシャリです。実は今日また埒も無いことを考えていて、日本人など東アジアの人間と西欧人の差について思い当たることがあり、今話題の(とにかく世界中が大騒ぎしている感じ)出生率低下による国の衰退という悲観論に反駁できそうな気がしました。これ、次のブログのテーマにしようかな。
そうなんです、本を読むには数時間で足りるものでも、それを書くには何日もかかるんですよね。数年前に友人からまとめて古本をもらって以来、いろんな小説やエッセイを読んだのですが、特に有名作家の若いときの作品を読むと、そんな若さでよくこんな構想を立ててこんな登場人物を創造できたものだと感嘆してしまいます。でもそのためにどれだけの時間を要したか。案が出来上がって、それを紙に移す作業もときにはどんなにか難航したにちがいない。それを思うと、寝そべって頁をめくっていることがちょっと申し訳なくなったりしました。
これって、ヘンな譬えですけど、一部料理に似ているような気がする。ものによっては1時間近く玉葱を炒めたりして、一つの品のために3時間近く台所に立たねばならないこともある。でも、その料理は長くても15分くらいで食べられてしまう。作る楽しさがあれば、そして喜んでもらえれば、それも報われますけどね。