5月6日(月)
ブラッドベリあと20ページ残っていると思ったら2ページでおしまいになってしまいました。
そのページに書かれていたのは、人間の言葉と記憶への信頼、本の断章/断片であろうとも言葉は人間を支える、一人一人が本になれば良い、その記憶がたとえ1ページでも…という信頼。
巻末の約18ページは…解説その他でした。おおよそ解説を読む習慣のない僕はスルーしようと思いましたが今回はちょっと読んでみました。読んでよかったです。
(解説を読まないのには理由があります…本は自分が感ずるままに読む。予断や解説は邪魔なだけ、勘違いでもいいからまずは本の中身を感じたいからです)
ブラッドベリがこの小説を結構苦労して書いたことがわかりました。
当時の世の中の動きがあまりに早いために自分自身の小説が陳腐化してしまうのではないかという恐れ、、今のSF作家にも同じことが言えるのではないかと思いました。20年後すら想像つかない。小説家の想像が追いつかない(僕が創作現場を知らないだけかも)。
寿命が伸びたといってもせいぜい100歳前後…このようなスパンでは大木が1000年単位で世の中のを見つめるような視点は得られない。
せいぜい頑張って次の時代に託すべき夢を描いてみせる。それができたら面白い。誰だって思う事は自由。創作することもまた自由。
みんな…夢を語ろうぜ(言うだけはタダ😜
)
「そうしようと思ったら…年寄りになっちゃって馬力がなくなって、もうどうでもよくなっちゃった、、というところが本音であり正体ではないかと思います。」
これなんですよ、問題は。団塊世代は現在まだ74~77歳、この年なら馬力は残っています。それでも、だんだん馬力というより気力がなくなるんですね。ああ、面倒くさい、億劫、と感じる。80過ぎたらこれがもっと顕著になる。同じ80歳でも一世代上の人が経験した80歳よりは元気だろうと思うものの、経験してないのでその辺は分かりません。
母が82歳で手術を受けて、主治医から「今後は坂を転げ落ちるように年取りますから、一人暮らしは無理です」と言われ、「でも先生、82とか83でも結構元気で一人で頑張っているお年寄りや、若々しいお婆さんもいますよね」というと、「そんなの誤差のうちですよ、どんな若作りしたって張り切ったって、80歳の細胞は80歳です」とニベもない。でも私「誤差のうち」っていうのが結構気に入っているんです。
私は未来を想像する能力がないので(だって、今の世界/日本、30年前には誰に予想できた?)、たいていは過去のことを考えます。子供時代の貧しかった村、気がつかなかったけどわが家より遥かに困っていた友人の家庭、未亡人の母親が失対つまり道路工事や河川工事に出て日銭稼いでいる家もあったし、米屋では家族が粉だらけになりながら働いていた。
当時の暮らしを思うと、今は誰もが夢に見ることさえなかった生活を送っていると思います。ただ、現在90歳前後の人は戦中派だから教育も不十分で、社会の変革も知らず、いろんな制度からおいてきぼりをくらっている。せいぜいテレビを見て時間を潰すしかない。
この人たちも間もなくこの世から去っていくでしょうが、そうやって団塊の世代が人口ピラミッド(逆ピラミッド)の天辺に来た時、彼らは-私たちは-やっぱり朝からテレビを見て暇つぶしをする集団になるんだろうか。それとも、これまでの受け身老人とはちょっと違う生き方ができるのだろうか・・・なんて、よく布団の中で思うのです。それも、体がきけばの話ではあるけれど。