昨日兄と兄の友人の OKさんと3人でお決まりの僕の行動報告を含む雑談をした後、立石図書館に寄ったらリサイクル本の棚に図書館で除籍になった本が並べてあった。適当に5冊ほど選んで持ち帰り、出版年を背表紙に付け、本棚の「未来」の分類に加えることにした。10年前の未来予測が10年後の未来予測をするときの参考資料になる。
(ところで兄と OKさんは僕より7歳年上、つまり僕の7年後だ。自分の知らない世界を僕に先んじて見ている人たち。 OKさんに僕が日頃の疑問をぶつけると、はぐらかすことのない答えが返ってくる、兄は2人の会話をじっと聞いている、いつもそんな2時間くらい、熱心に本を読んだと同じ快い疲れが残る。いつも OKさんが来る前に兄と食事を済ませておく、その兄とは主に昔話をすることにしている。僕が兄に話を振る、例えば昨日はこんな風…あのさ、昔が良かった昔が良かったとよく聞くけどあんなもん嘘っぱちだよね、とぼく。
19世紀末にロンドンに暮らしていた男性が100年後のロンドンにタイムスリップしたことを内容とする、1887年に出版された小説(著者:ベラミーの「ルッキングバックワード」)を例に出し…結局その主人公は19世紀に戻ることもできたのだが、未来にしか生きられないと観念し未来に舞い戻る話を例に挙げながら、「今の方が良い世の中」と強弁してみせた…兄は黙って聞いている、うん、うん、、。)
出版年を本の背に書いた本を本箱に並べると年代別の本の分類が地層に見えてきた。昨日ただで仕入れてきた本は、とりあえず未来予測を織り込んだ今書いている(遅々として進まない)本の2030年代の話に反映させてみたい。そうやって書きあがった何章かを恥を忍んでサカナに、あるいはエサにして、人を釣る?!というか資料の一部分にして朝の勉強会を企画してみたい、あはは😉
あはは、こういう話のできる世間こそがホンマの世間ではないでしょうか。
美術館での経験、鑑賞者の顔が大理石の彫刻に似ていて見とれた、というのはよ~く分かります。これちょっと微妙で話題にしにくいんですけど、ルネッサンス期以降の、特にバロックの絵画に、ほら、ヴァルカヌス(ヴァルカン)を描いたのがあるでしょう。ヴァルカンは火の神、鍛冶屋の神さまだから、もちろん体格がよくてごっつい感じですよね。
私あるとき浴室で亭主が上半身をお湯で拭いているのを見て、うーん、ヴァルカンみたいだなあ、と思った。口には出さなかったけど。
それと同じことを日本の我が家でやっているのを見て、母がなんて言ったと思います?「んまあ、入道みたい!!」日本語の分からない相手で幸いでした。
あたりだと思います。サンスクリット語ぜひそうしてもらいたいです。一言半句でも理解できるとなんか親しみを覚えますよね。とりあえずお寺さんの卒塔婆?によく書いてある事が何を意味するのか…スマホを向けると理解できるようにしてもらいたいです。I Tの分野ではローンワード: 借用語→新造語?多いんじゃないでしょうか。英語の造語力結構すごいですよね。 アメリカ人は遠い自分の祖先にあんまり興味がないと言うことなんでしょうか、前に甥っ子にフランスの美術館巡り連れてってもらったとき、鑑賞者の顔が大理石の彫刻にそっくりな人が多くて、そっちのほうに興味がいってしまったことがあります。それに関連して、たかが肌の色の差が人間の心理に及ぼす影響の深くて広い功罪についてついつい考えてしまいます、あ、また偉そうなこと言ってすいません😅ここが世間であることをつい忘れてしまいます😓
アップデート、不正アクセス、アプリ、何が何だか婆さんにはよく分からない。スフィンクスの謎かけや巫女のオラクルの方がまだまし。
ところで以前から思っているのですが、アメリカ人ってギリシア・ローマの神話やらその歴史やらに興味を持つのは人口の0.001%、つまり10万人に一人いるかいないか、なのに(白人系ならその遠い先祖でもあるのに)、現代の最新技術分野にオラクルやデルファイなんて数千年前の言葉を使うの、面白いですね。著作権とか無くて、よかったね。
ITの分野ではインド人の活躍が目覚ましいから、そのうちサンスクリット語も登場するのでは?
ありがとうございました…そういうことでしたか😀
写真にあげた本は… 10年も経つとこの分野は陳腐化するのでリサイクルにしたんだと思います…それがたまたま僕がこれから揃えようとしている10年刻み年代にぴったりだったもんでもらってきただけです。過去もかつては未来だったので面白い試みだと思っています。遠い将来AI自身が俳句、作句を楽しめるようになる時代が来るかどうかが興味があるところです。コンピューターが打ち出す俳句に刺激されると言う事は大いにあると思います、今はまだその段階かなと思います。
グーグル、クラウドなどコンピューター関係の本ばかりばかりですが、この分野にそんなに興味をお持ちとは知りませんでした。
心をもつロボットで思い出したのですが、もうだいぶ前に「ひょこむ」でろれちゃんも含めて、人工知能には情緒・感情はないから文学は無理よね、などと話していたとき、カーリーさんが、多分そんなことはないという反論のつもりだったのでしょう、20近い俳句を紹介して、この中で半分はAIが作ったものですが分かりますか、というクイズを出していました。
私の答えはかなり当たったのですが、それはAIの句にはいずれもどこかで目にした表現があったからで、要するに誰かがAIに何万・何十万という句を記憶させ、その中から5・7・5の組み合わせを示させたためだと思います。普通の単語はもちろんですが、感情表現も「借り物」になっていた。
でも考えてみるとに人間が作る句も、それまでに見た無数の俳句の中の言葉の記憶から生まれることが多いのでしょう。創造といってもゼロからは無理で、意識下に沈んだものの中からあるものを抽出し、無意識のうちに真似ているように思われます。
ただ、人間の俳人によるそれらのコンビネーションは独特で、人の心を打ったりなるほどと唸らせる組み合わせはAIにはむずかしそう。実際、かーりーさんから見せられた中にそういう句はありませんでした。
私の好きな中村草田男の句
・万緑の中や吾子の歯生え初むる
ですが、万緑も吾子も歯も、生え初むるという動詞さえも、さらには「や」という切れ字だって、AIに記憶させればすぐ器用に使えるでしょうが、こういう語列・構成で夏の雰囲気と親の心を出すにはやっぱり人間でないと・・・と、私は思いたいです。ね、ろれちゃん。