昨日3時ごろ友人2人が家に来てくれた。家で人と会う分には僕の頭の中は楽なようだ。人と話すことがストレスになるといっても自分が話す分にはそのストレスは半減。少し話しを聞いていただけると思うとたまっていたものが吐き出される(相手には迷惑だったかもしれない)こうやって独り言を言いながら吐き出すのとは訳が違う。友人の顔の変化が見られる。これだけで僕は一安心。話を聞いてくださる人たちと言う安心感が会話によるストレスを半減させる。
ベラベラ自分がしゃべったことを思い出すと話の内容が「ストレス」についてであった事に今思い当たった。自分を縛る強いストレスをコントロールしてからあるいは会話を重ねるなかでというか本当は会話をする前に自分自身を整理しておくことがマナーなのであると気がついた。人と話をするための別の顔。これを仮面と言っては誤解が生じる。使い分け。子供に至るまで。これはストレスの原因にもなるしストレスを解消する原因にもなる。何をいってるんだか。
要するにコミニュケーションはストレスだ。人はコミニケーションによってその人の人となりがわかる。言いたいこと言った後で初めて本当はこう言えば話は伝わったかもしれないのにと後悔する。最初に自分はこんな風ですと軽くジャブを入れておくと後の会話がスムースだったとわかる。昨日の話(僕のいいたかったこと)を一言で言えば…自分を表現する簡潔な言葉を頭にいつも用意しておくべき、かな、相手も僕も。
例えば僕の最近のジャブ:手だし、というか前置きは、、、僕は人の話しを聞きたくありません、自分が話すことの方に興味があります。
これを言うとみんな多分おちゃらけてるんじゃないかと思うだろう。
それが最近の僕の手みたいです。少し変わった人なので要注意と言う信号を発信しているんだと今気が付きました。伏線と言うやつです。僕は相手にもそれを望んでいたのだなぁとやっと理解できました。雑談の前に伏線を張る。そうすればかなり人間関係がスムーズになると確信できます。人間はいつだって心が不安定、その日の時間帯によっても違う。(猫や犬を飼う理由にもなっている。割と心が安定した犬が近くにいると自分の立ち位置が確認しやすいからだろう。犬も猫も飼っていない僕は僕が独り言言っていないと意識が一人歩きしてしまって「意識自身が困る」から独り言を吐かせているのだと思いました。ことほどさように自分自身さえわからない人間がコミニュケーションをはかるだなんて…とても人間わざとは思えない…意識が自分自身を支えてくれている…ありがとうぼく。
人間関係は難しいとまず一人一人が理解する事、なぜ難しいかを考えること、なぜコミニケーションをはかりたいのかを考えること、どうすれば自分自身を伝えられるか事前に考えておくこと、自分の今の状態をコミニケーションを図る前に把握しておくこと… ずらずらと思い出すだけでコミュニケーションがいかに難しいか、いかに重要か…だからこそ僕らは雑談が必要なのだ。なのに雑談の時間はどんどん切り取られていく。それが現代の時間割だ。そうだったのかと今一息ついた。そうだったのかとひとりでいたがる理由もわかった。自分自身との会話が一番不足しているからだろう。
(発表の機会に恵まれなかったシューベルトに友人たちはシューベルトのためにコンサートを開いたと聞く。汝の隣人を愛せと言ったのはキリスト、キリストが一番いいたかったのはこれかなぁと思いました、独り言を言っているよりも友達が近くにいたほうがいいよと言っていたのかな)
シューベルトやワーグナーを身近に感じられるこれが肝心な事ですね。時代と環境は変わることがあってもその時代を感じることができる環境を思い出すことができる場合によっては空気までも。びすこさんはそういう人でたまにワーグナーの行進曲をハミングして、自分を引き立てられる人あはは楽しいなそんなちょっとしたことを知ること。