断続的に途切れはするけれどしとしとと降り止まない雨に各地に土砂崩れ警報が出されている。昨日傘をさしながらてくてくと四つ木から青砥まで歩いてバーミヤンにつくとぴったり開店10時。中に入って兄を待つ間の2時間いろいろ片付けた。片付けながら考える。何を? 20年後何をするかだ。50歳の時に考えた、だから1993年の3月15日に尊厳死協会に入った。多分どうやって死ぬか考えていたからだと思う。朝っぱらから縁起でもない話。まぁいいお盆だ。兄を待つ間、同協会が発行しているリビングウィル182号に倉本聡が寄稿した友人の死にまつわる話を読みながら、この20年間尊厳死についてどれだけ理解が深まっただろうかとちょっとだけ唖然とする。そんなに僕らは忙しいのか。そちらのほうにもっと唖然とする。協会の入会者数が10万人と聞いてからだいぶ経つけどいまだに20万人にもなっていない。倉本聡の友人は肺がんが発生してから麻酔投与のタイミングが医療上のシステム上合わず結局自殺未遂を誘発してしまう、尊厳死協会の会員であったにもかかわらずだ。のたうちまわってやがて、、(以下12ページより引用)
その日の昼すぎ、コージはやっと(やっと、は傍点付き)息を引き取った。
よかった!
おつかれ様!
と言う言葉しか、僕の頭には浮かばなかった。
(引用以上)
さらに彼は寄稿文の最後でこう述べている、コージが最後を迎えた、病院について述べながら(以下引用)
今その病院は建て直されて、四十数年前とは比較にならない設備と医療を備えた新しいものに生まれ変わっている。
だがその病院で僕はコージの、最後の日の苦しみに立ち会ったのである。
それが僻地の病院だからとは、僕は断じて思わない。
それは医術の進歩とは関係ない、医学と言う一つの学問の中での思考のあやまり、いわば哲学の欠如である気がする。
そのことに僕は今、口惜しさと怒りを噛みしめている。
(引用以上)
1ページめくって14ページに…四季の歌として文部省唱歌「ウミ」が海の写真とともに見開きで出ていた、、
ウミハ ヒロイナ 大キイナ、ツキガ ノボルシ、日ガ シズム。
次回のギタークラブでは小学2年生の彼とこの歌をギターで演奏しよう。年寄りにだってできる仕事はきっと山ほどあるはずだ、これもその一つだ。僕も演奏してみたいし。
(兄とバーミヤンで食事を済ませドリンクバーでコーヒーを飲み緑茶を飲み2時ごろ別れた。その足で自由の庭に寄り、ペガサスさんたちが開いていた癒しコーナーで占い🔮を受けてみた。僕が疲れているのはすぐばれて、ちょっと自信がつくようなことをアドバイス受けてすっかり元気になりました。ちょっといっぱい飲んだりちょっとしたサジェスチョンですぐ元気になれるようなそのぐらいの落ち込みが健康的でいいですね…あはは)
良識、いい言葉ですね、志があって高ぶっていない、落ち着いていて、惑わされることもない、うん、ドイツ国民に代わって?なぜかありがとうございますと言いたくなります、びすこさんの体重分だけ不均衡が是正されたと思いますね、人間のかるみの重さについてはヨーロッパの人も学んでほしいですね、つ、つまりその…あんまり人間をいじくり回すのは良くないですよね、なんちゃって😉
そうなんですよね、死の世界って誰も行って帰った人はいないから、何を言ってもいいけど、何を言ってもあまり意味がない。
日本社会を見た外国のいろんな学者や宗教家が、日本人は死生を論じようとしないとか、何でもちゃんと論理立てて考えない、とか批判しますが、死ぬことを理路整然と語ってそれが何になるちゅうの。よう分からん、と言いながら死んでいったっていいじゃありませんか。そういう人はそういう人なりに死を迎える準備はしているんだから。「割とあっさり死んでいく」って、いいと思うなあ、私は。
また話が逸れますけど、マザーテレザとかいう御婦人が日本に来て「日本人には助け合いの精神がない」とか、ほざいた(乱暴な表現ですけど、そうとしか言いようがない)そうで、また日本のアホなカトリックかぶれがそれに乗って自国民を冷淡だと批判した。
ちょっと日本を覗いて、社会の広がりも奥行きも知らず、ひとの国をよう非難できるもんやわ。厚かましい。日本人は理屈をこね回すことをしないので、理屈=知性の欧米人から見ると単純バカに見えるかもしれないけれど、実際にやること・考えることは、文句たらたら・揚げ足取り狂いのユーラシア大陸西半分の住人よりずっとまとも。我らには、良識ってものがあるんですよ。
今日はどうも機嫌が悪いびすこです。
僕の前の相棒が…人間の漠然とした死ぬことへの恐ろしさが宗教を生んだ、と断言していましたが…日本人はさしたる宗教観?も持たないのに割とあっさり死んでいく、、つまり宗教観はある、とも言っていたような気がします。前にも言いましたが母はお墓参りすると…清々すると言ってました。あの世に出かけるのに?帷子かたびらまで作ってました。でもさすがに死んだことがないのでいちどだけ、自信がなさそうな、それらしいそぶりが見えたので…僕も死んだことがないのでわからないけど… 一回しか死なないので大丈夫じゃないかなぁと返事していました。仏教も神道も追い詰めない、アミニズムに毛が生えたような宗教観でいいじゃないかと思っている僕は無神論者と言いながら…どうなんだろう…あはは。論理を詰める癖は実はないので、(所々気になるところは自分なりにもちろん詰めますけれども)つまり奥があることをがわかっても追求しません、追求したところで僕の頭ではたかが知れているので…これってある種の宗教かもしれませんね、あ、はぐらかしてませんよ、すいません何のご返事にもなってなくて。土まんじゅう作ってもらってその下にうずくまればもう最高に近いですけどそれも別に望んでいません。今日の気分は社会の寄生物パラサイトみたいな感じです。僕の相棒が…昔硬派してて、硬派も疲れると言ってましたが、、、泣き言を一切言わなかったコージさん、男の意地を通せなくて辛かったろうなぁと涙が出ます。電気ドリルで自分の胸を刺したと言いますからその壮絶さに拍手するしかないと僕は思いました(今の気持ちをメモしとくと後で読んだとき面白いかなぁと思って…つい書いてしまいました、びすこさん、コメントありがとうございます)
尊厳死・安楽死・自殺幇助、いずれも重くて解のない課題ですね。数年前にカトリック神学(自殺者は地獄行きとされている)の学者が、多発性硬化症だったか次第に視力も衰える病気になって、「学者の自分が読むこともできず生きているのは意味がない」と言い、安楽死を認めているスイスの施設に入ると発表して、世間を驚かせたことがありました。
この人の神学って何なんだろう、と考えさせられましたね。非インテリの庶民は読書なんかどうでもいいから見えなくても生きていられるだろうよ、って言いたかったのかしら。
カトリックの国(スペイン・イタリアなど)では安楽死・尊厳死は厳禁ですが(苦しんで生きるのも神の意思だとかで)、ドイツの場合は立場が曖昧です。ただ、スイス、オランダ、ベルギーなど安楽死を認めている国が周囲にあるので、そこに行って死ぬ人もいます。
カトリック神父がプロテスタントの国へ行って死なせてもらう、って、これ、どう解釈すればいいのでしょう。
ドイツではこの種の矛盾がとても多い。
話が逸れますが、原発廃止も似ている。メルケルが全廃を宣言して、22年までにすべての原子力発電所が消えることになっていますが、電力が既に大幅に不足し、欧州で電力費がダントツに高い。それでも政府が政策を改めないのは、引っ込みがつかない、というより、フランス、ベルギー、チェコなど周囲に原発大国があるので、いつでもそこから電力を調達できると思っているからですが、これで「環境重視」「無原発」なんて、笑っちゃいますね。
自国は高邁な理想を唱え、都合の悪いことは近隣国の手を借りる。誰や、ドイツは素晴らしい、なんて言うとるの。