もう7時過ぎたと言うのに空はまだ充分明るい。さつま揚げでベランダでいっぱい飲みました。この頃はたった1杯で充分酔っぱらえるようになりました。体力が落ちているのだと思います。
今日もギターの練習をしました。弦楽器の魅力にはまっています。琴線に触れると言う言葉がありますが…これは弦楽器のイメージからきているのだと思います。減衰していく音を聞いていると心が落ち着きます。
昨日図書館に予約しておいた「骨董屋と言う仕事」:青柳恵介著:平凡社1999年10月刊、と言う本を借りてきて、さっき読んで思い当たることがありました。この本の中で取り上げられている骨董屋さんの店主には美術専攻の人が多かったです。アーティストは骨董品が語りかけてくるオーラが気になるんだと思います。それでも商売ともなればいくら趣味が仕事になったからといって楽しいことばかりではないと思います。ところが、そこから生活費を稼ぐと言う緊迫感のない高齢者にとっては趣味の延長でこの仕事ができると思いました。それも高価な骨董品を扱うと言うわけでは無いのです。
どこにでもありそうな、ほんの50年前くらいの骨董品と言えない安物の什器や家具、この中に今では駆逐されてしまった様々な部品類があるのです。取っ手とか補強金具です。僕はこれで思い当たることがあり…時間をたっぷり吸収した古いものの断片を使って新しい何かを作る仕事を思いつきました。音楽だって結局は断片、フラグメントを使って新しいものを作り出しています。工作も同じこと。時間がたっぷりある年寄りの仕事としては魅力があります。放っておけば捨てられてしまうそのような品々を分解して新たなものを生み出すのです。青柳瑞穂の本から始まった「骨董品」の切り口からまた何か新しいものを組み立てることができたら楽しいなと思いました。
(残り物をカレーに仕立てましたのでそれを食べてもう寝ます。今日は誰とも話さなかったのでストレスはゼロです)
おー持ちごたえのある本格的なアーミーナイフを鉛筆削りに使ってらしたんですね、やりますね。同じことを短刀でした友達もすごい。女性が持つと凄みがありますね。 護身用に持っていた時代もあったことを考えると、、、人は誰でも多かれ少なかれ気持ちの中に爪も牙も刃も潜めているかもしれないと思った方がなごやかにいくような気もいたしますがどうでしょうか?
骨董品、というか思い出の品はいろいろくさんあったのに、主婦である祖母や母は自身の思い出ではないせいか、あっさり捨てる傾向がありました。前に、女性にはコレクターが少ないという話をしたことがありますが、関係ないとさっさと捨てる傾向もそれと通底するものがあるのでしょうか。
父親が植物採集に使った胴乱、同じく父が使った飯盒、戦場から持ちかえった望遠鏡。いつの間にか消えてしまった。彼のミリタリーナイフの方は、私が隠してあったので残っています。ヴィクトリノックスではないですが、いわゆるスイスアーミーナイフに似ている。子供の頃、私はこれを鉛筆削りに使っていました。
そういえばあるときに九州の尊いお家柄の方の話で、戦後に貧しくなって級友が持っているような普通の鉛筆削りも買ってもらえなかった時、先祖伝来の短刀で鉛筆を削ったと言っていましたっけ。