昨日の日曜はソーイング教室の責任者の方がお仲間といろいろお仕事をなさっていたようす。そのうちお客さんですよーと声をかけられ下に降りていくと… PさんQさんが見えててご自分たちで栽培した、とりたてのおいしそうなキャベツをいただいた。こういう頂き物は嬉しい。こういうちょっとしたお心遣いに接すると気持ちが上向きになる。
それまで、本を読む気が起こらない位、ある懸案事項で、気持ちがちょっと下向きになっていました。町会組織のことです。街全体の高齢化が進み…町会組織が維持しづらくなっている。僕は今まで、どこに暮らしていても町会組織が身近でなかった。協力も一切してこなかった。僕自身のそうしたつけが回ってきたらしく、不承不承、町会の世話役をやらざるをえなくなりとりあえず担当箇所の班長さんのなり手を確認して歩く羽目になった。どこへ行ってもそんな役を喜んで引き受ける人はいない。話の初っ端から及び腰、その割には上手に遠回しに断りを入れてくる。その辺は年の功で皆さん心得ていらっしゃる。僕の一番不得意な交渉に関する役どころだ。やってられないけどやらざるを得ない。町会長にありのままを報告書にしたため報告することにして、砂をかむような思いでまとめてました。
そんな時に楽しそうな笑い声が聞こえたり、ちょっとした心遣いがいただけるととてもほっとする。
(結局昨日は本を開く気も起こらずじまいでした。昔僕の上司がよく言っていた…仕事が終わった後1、2時間読書に集中しないとなんか1日が終わったような気がしない…あーこの人は頭を使わないと落ち着かない人なんだな、と頭のいい人の欠点のごとく当時は思っていました。
読書はそんなわかりきったものではない。声に出して読めば気持ちがだんだん整ってくる。最近そんなこともやっとわかってきました。散文といえども…歌、詩、譜、うた、なのだ、きっと、そう思います。暮らしのフラグメント、断片、断章といえども文章にはそんな力がある。
そんなことを思いながら、読書が身近になってきた証拠だなと自分自身を慰めました)
高齢者(私もその一人ですが)と接しているときのいら立ち、分かります。なんたって気力がないんですよね。だから話にならない。でも自分も歳とって気弱になっている部分もあるので、それを責めることもできない。
ただ、私たち戦後生まれの人間は学校教育や社会の変化もあって、一応理屈は理解していると思うのですが、自分の育った環境によへの拘りというのはなかなか厄介なものがあります。役所のコスパの件ですが、私企業や個人の場合は別として、公的な機関が見返りばかり期待しては何もできないでしょう。無駄を一切省いた防災策というのも、ちょっとあり得ないですよね。団塊の世代は何かというと槍玉に上がりますが、それよりも10歳以上若い人達の中に、精神の硬直を見ることがよくあります。