< 思い出す> 40歳過ぎた頃、墨田区向島五丁目でやっていた建物の外装工事会社を畳んで、一人でぼちぼち住まいに関する便利屋を始めていて、収入も安定して得られるようになり、仕事の合間を見て趣味やボランティア活動をする余裕ができていました。 勤め人の選択肢は一切ありませんでした。サラリーマン失格です。たったそれだけのことがわかるのに20年以上はかかったと言うわけですかね。適応しきれなかった。 僕が50歳のとき母は80歳。母はゲートボールの仲間と旅行に行ったり喫茶店でおしゃべりしたり近所で食事会をしたり楽しそうだった。達者で元気でいてくれるのが子孝行?と言うものだ。 仕事は儲かるほどの仕事はそもそも受注しないし僕のペースで何とかできたのでよかった。サラリーマンは失格でも自営業の方で何とか食べられるようになって…もうそれだけで僕は結構幸せでした。建築に関する便利屋の仕事が忙しい時は全部外注をお願いしていました。例えばふすま貼りとか。あの頃は一軒、ふすま貼りを請け負うと結構な枚数になるのです。在来工法のおうちを見つけるとそれだけで収入源を見つけた気になっていました。 仕事を覚えてもらって丁寧に仕上げてもらう。この関係ができるとぼくにも余裕が生まれる、と言うことになります。 尊厳死協会に入ったのもこの頃です。きっと一区切りつけたかったんだと思います。社会をいっぱし、わたり歩いたつもりの50歳過ぎ…一区切りつけて、後の人生楽しもう、と思ったんだと思います。自分の才能も、性格もある程度つかんで自分なりの基準もできていたんだと思います、諦め、の一区切り。 母は一病息災、若い時から心臓にちょっと心配があったんですけど日ごろの養生が幸いして外見では分からない位健康に見えました。近所の人たちとの交際の仕方も安心して見ていられました。社交的でしたね、みよちゃん、あはは。 食事会とかも母の方から積極的にご近所の方にお声掛けして楽しんでいました。民謡とか踊りの習い事を僕が探し出して勧めると新しい仲間ともすぐに打ち解けていきました。 この頃は姉夫婦と子供たちとも楽しく行き来していましたが、母と姉との相性が悪かったのか、詳しくは言えませんが関係がギクシャクして僕も気がもめる事でした。身内と言うのは良いところも悪いところもひっくるめてあからさまに見えてしまいますので付き合いもかえって難しいものがありますね。親しき中にも礼儀あり、、、僕はこの時学んだような気がします。深く付き合うことが必ずしも深く理解し合えるわけではないし、淡白な付き合いでも深く理解し合える事はある。礼儀をわきまえて付き合う意味はそこにあるかなと思いました。 40歳位から50歳位までは社会教育施設に集まってくる若い連中に声かけして施設の慰問のボランティアで手作り楽器の演奏をしたり、僕の経歴を知っている知り合いに頼まれて、社会福祉協議会発行の広報誌の編集を手伝ったり、手作り絵本の会「たまとぽち」を同好者で立ち上げて、仕事帰りに金町の地区センターにちょくちょく集まってワイワイやっていました。また、当時流行っていた異業種交流会なんかも目論んでやってましたね。今も相変わらずそんな、新しいもの好きが変わらないのはそのときの楽しい思い出があるからだと思います。 ハンディのある男の方2人、女性の方1人の車での外出のお手伝いも頼まれてやってました。社会福祉協議会のリフト付き箱型車の大きなバンはしょっちゅう借りてました。そのうち仕事で使っている小型の箱型の車を改造して車椅子を運べるようにしてからはもっぱら仕事の合間を見ていろいろお手伝いしていました。辛い思い出もありますが今なら時間のベールがかかって話せそうです。 (リヤカーいっぱいに積んでいる袋の中身は何なのおじさん…あーこれかい…これはね…一つ一つの小さな袋の中にね、叶えられなかった夢が一個づつ詰まってんのさ、君も一つ引き受けてくれないかなぁ… 「ふくろうおじさんの贈り物」 ・・・手作り絵本作りの仲間に女の人がたくさんいたので受けようと思って?童話も書いてましたね、ある人にコピーライトごとあげました、ありがた迷惑、ぷっ、押し付け体質は今も変わらず。楽しかったな。大型の絵本も含めて20冊ぐらい作った、てことは、三、四年そんなことして遊んでたのか。都美術館の絵本展にも毎年出品したり、銀座の高野ギャラリーで身分不相応な展覧会もやったことがありました。仕事の合間にやっていたわけだから思い出しながら話すと気楽だけど、仕事終わって他の人も同じ状況で公民館に集まり話を作り絵本に仕立て、展示会に出品してたって事は他のみんなも結構大変なものはあったんだろうと思う。苦労した思い出も、思い出はこうやって少しずつ良い思い出に変わっていくんだなぁ。 引き続きうまく思い出せますように…。 このシリーズたまに休むことがありますが30回位は続けたいです。たまにコメントいただけるとうれしいです。皆さんにもこういうブログ、エッセイ公開おすすめしたいですね。更年期は?気を紛らわすものがたくさんあったほうがバランスが取れそうな気がします。男の更年期なんか死ぬまでたくさんあると思います、そう覚悟してます。いまだに勉強することがたくさんあるので飽きる事はありません。ありがたいことです
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今新しい順にびすこさんのコメント拝見して…あ、最初のぼくのコメントいい線いってるかもと思いました、当てずっぽう言ったのに、、、びすこさん、お母さん役おつかれさまでした🙇♀️
お二人同様、私も見内の問題では悩まされましたし、今も後遺症があって結構苦労しています。母親と息子の関係がいびつだったことが大きいですね。いちまるさんのお姉さまとお母さまとの関係はうちの場合とちょっと似ているかも。でもドイツまで行っても結局母が頼っていたのは私だったので、行ったり来たりで一応最後まで面倒は見ましたけど。わがままで「あんた何さま」ということが多々あって、今でも思い出すと腹が立ちます。お宅とは大違い。
未だ大人になる前に亡くなった祖父とか、おカネがない頃に逝ってしまった祖母や叔母たち、何もしてあげられなくて後悔が残ったので、母にはそういう悔いを残さないようできることは全部やりましたが、死後に分かったこともいろいろあって、「あんなに優しくしなければよかった」と思いました。珍しいケースでしょう。でも親戚や知人たちも私に「あんた、あそこまでやる必要はなかったのよ」とか「あんな風に恵まれた老後を送るなんて、徳があるわけでもないのに、ただの幸運よね」などという。これも珍しいケースですよね。
あの世で美代子さんの弟子にしていただきたい。でも美代子さんも匙を投げると思いますけど。
投稿後の編集okです、ありがとうございます!身内のバイアスは極大です、今何とかバランスを取ろうとして姉になったつもりで小説に仮託?しようかと思っています。続編がんばります、頑張れます🙂
わが身を振り返っても思い出すことは数限りなくありますが、30年以上も前のことをこれほど筋道を立てて鮮明に思い出すのは困難です。特に身内のことは色々バイアスがかかって難しい。続編楽しみです。差支えのない限り固有名詞を出していただくと、同時代にほぼ同地域で暮らしていた私自身の記憶とシンクロして興味が倍加します。
それから、投稿後の編集は見出しの右の3つボタンのメニューの中に用意してあります。