< ぼける > 有吉佐和子の小説、恍惚の人(1972年刊)立石仲見世にあった本屋さん、葛飾文庫(1坪位の店なんだけど近くの小学校や中学校の先生方御用達の店)で予約しておいて発売を待って読んだ覚えがある。 この本は僕が24歳位の時に読んだことになる。こういうことにこんなに興味があったことに自分自身今ちょっと驚きます。小学校6年生の時に立ち会ったおばあちゃんの死が影響していると思います。もちろん当時の事ですから家でなくなりました。僕にとって身近な人の死は極めて影響が大きかったです。血尿が出ました。あの日以来人間について考え始めました。 本とおばあちゃんの死が結ばれました。おばあちゃんの晩年、、お手洗いの便器の前に父が作った手すりがあり、その手すりの下に小さく紙を切って並べてありました。おばあちゃんが用足しながら新聞紙をちぎって並べたものです。僕は子供ながら…言語化してなかったかもしれませんがその意味が読み取れました。 家で家計の足しにするために母とおばあちゃんがやっていた内職のホックをつけるときにおむつカバーの生地を傷めないように小さなあてぎれをします。そのあて切れだと直感しました。お手洗いに入っても内職をしている。そのことを言語化すれば…多分人生の大先輩に…、内職を通してというか、小さな当て布(あてぎれ)という家族にしかわからない記号を通して連帯を感じたんだと思います(小学生の僕もよくその内職が段取りよくゆくようにあらかじめカシメるボタンの出っ張りに丸く抜いた小さい当て布を通す手伝いをしてました、今思い出しました)その時の気分のまま大人になれました。きっとどなたでも子供のときの「まるで大人のような感覚」を先取りしてからゆっくり大人になっているんだと思いました。平均寿命が短かったときの人間の知恵ってやつですかね、先回り。子供って思っている以上に大人なんですよね、きっと。感受性に長けた小さな大人。 今思い浮かべるだけでもいわゆる認知症の方数名がさらさらと思い浮かぶ。昔住んでたご近所の方がふらふらとぼくの家に来た。ニコニコするばかりでさっぱり要領を得ないのでそのおばさんの何か名札でも下げていないかと思って見ても何もない。仕方なく近所のお巡りさんに声をかけて、きてもらった。幸い以前にも徘徊していたらしく警察に事情聴取のメモがあった。それで息子さんにつながりがついて落着した。この辺に住んでいたことが懐かしかったんだなぁ、と思いました。 江東区大島の下町界隈で2、3ヶ月仕事をしたことがある。建物の外壁を塗っていると次から次へと面白いようにお声がかかって仕事は途切れることなくあった。その日も早速仕事に取り掛かる。おばあさんが出てきてひそひそと僕に話しかける。あのねうちのおじいさんぼけてるけど気にしないでね、それだけ言うとさっさと鼻歌まじりで家の周りをぐるぐる回っている。後からおじいさんが出てきて…うちの婆さんぼけてるけど気にしないでくれな。 僕はこのおじいさんから仕事をもらったのでちょっと面食らった。気にしないで仕事してたら若い仲間がやってきてあのおばあさん朝から2度も3度も同じ話してるんだけど頭ボケてんじゃないすかね。(仕事着がペンキだらけだもんで、、ペンキ屋だから当たり前)「あぁこんなに汚しちゃって早く洗ってお風呂行っておいで、、」こればっかり。おばあさんは認知症だった。昔踊りの名手で民謡も上手。近所の人たちはみんな承知していて毎日機嫌よく普通に暮らしていた。 綾瀬のお得意さんで、アパート持ちの女性の方が認知症だったと気づいたのは仕事を請け負った後だった。近所の鳶の頭がやってきてお金は俺が払うからよろしく。お茶菓子を出してくれて、その時、何度も何度も亡くなった旦那さんの前立腺の手術の話をする…ニコニコしてとても楽しそうに話す。見積書や請求書について何度も何度も確認を取られる。なんでもその鳶の頭の言うことには亡くなった旦那さんのつれ子、自分の子、分け隔てなく育てあげたなかなかの人格者だったらしい。この方も近所に溶け込んで普通に暮らしてらっしゃいました。近所の方の見守りを感じられました。お亡くなりになった後は息子さんから引き続き仕事をもらってました。 Empathy(共感)に関する多分アメリカでベストセラーになった本だと思うが(題名は忘れた)、、、アメリカのノートルダム修道院のシスターたちに協力してもらって(検体の事前の了解を取り付ける)脳のスライスを長年にわたって調べた研究者が書いた力作です。その中のエピソードの1つ… 100歳を超える双子の姉妹の1人は認知症を発症してなくなった。もう1人は修道院内で教鞭をとり最後まで矍鑠(かくしゃく)として授業を続けた…とあった。なくなった後、その発症しなかった人の脳を調べると組織に大きなシミが見られた。明らかな認知症の症状が広範囲に及んでいた。それにもかかわらず最後まで日常生活に差し障りがなく教鞭をとっていた、とありました。 (人間のいっこの脳は人間社会に似ていませんか。組織の1部が壊れてもどこがどうなってんのかわからないけれど脳の働きが補償される。また別の話で、事故で大脳を全部とられた人の術後、小脳が大脳の働きの1部を補償していたというにわかには信じられない話もある。養老孟司さんは、脳は社会そのものだと言っていましたね確か) (この研究は長年にわたりノートルダム修道院の協力のもとに行われ研究者が最初、亡くなった後の検体を恐る恐る申し込むと信仰心からか進んで申し込むシスターが多かったとあとがきに書いてありました) 昔ヘルパー講習の最終段階で三日間の実習研修がありました。最終日僕は認知症の方のフロアで8時間詰めていました。食事の介助とか話し相手です。幼稚園の先生もいれば飲食店の経営者の方もいらっしゃいました。フロアのあちこちにある外に出ないようにするための目の粗い格子を除けば普通の介護施設と何も変わりはありません。静かなもんです。 様子がちょっと変わったのは夕方でした。情緒不安定になる方が多く今まで僕と話していた人が急に僕のことを怖がって僕の方が面食らってしまいました。職員さんによれば夕方は感情の起伏が激しくなる方が多いと言うことでした。そうとわかれば驚くのは最初だけで慣れれば心の構えもできますね。その日は日曜日でしたので家族の方の面会も多くなごやかに皆さん歓談されてました。 認知症はこれから増える一方とか脅かし文句のように世間で取り出さされることがありますが、他の病気と同じように予防と早期治療を心がければ必要以上に徘徊や弄便(なんとかしなくちゃと言う本人の行為らしいです)を恐れることもないし数ヶ月のピークを越えれば落ち着くと言うことも常識になりつつあります。 近所には、認知症の人もいればドロップアウトした人もいる。また芸人さんもいれば芸術家さんに近い職人さんもいる。町全体が見守り態勢にある方が安心ですし暮らしやすい。気がついたら分断化が進んでいた世の中になっていた今となっては、理想論に聞こえるかもしれませんが、、、色々な人がいたほうが良いと言う当たり前の地域感覚が持てたらそれだけでずいぶん気楽になれますよね。 本当は隔離するのではなくみんないたほうが面白い。下町の子はそうやって育った。出っ張ったり引っ込んだりした人間関係をなんとなくわかって世間を学んでいく。そういういろいろな大人が散らばっていることが子供たちにも影響するし大人たちも日々勉強する。僕はそう思う。地域の力、世間の力がこれから試される。理想論だって言わなきゃ伝わらない。いっこいっこ崩されていたものはいっこいっこ積み直さなきゃ修復できない。一人一人が1人分の苦労を背負い暮らしていけば良い…と言ったのは、かのソクラテスだそうです。 (一人口(ひとりくち)は食えない、ニ人口は食える、、、何も夫婦に限った事は無い。まとまると安くなるのは買い物だけではない。地域の流通についてこれから課題に挙げてみんなで研究していけば面白いことができると思う。奥戸に住んでいた時、隣の懇意にしている方がその日1番の安売りの店をあちこち回って仕入れをしてくれる。それをぼくとはんぶんこしていた。むちゃくちゃ安い仕入れができた、面白かった、共同仕入れ) (母がある時ボケたふりして、あなたどなたと兄に声掛けしたそうだ。ぎょっとしていたそうだ。そりゃそうだろ、「おとぼけ」もいいかげんにしなさいな、お母さん、あははと2人で笑いました。その後母は、、、こんな事でもしなきゃ笑うことないじゃない、ですと、、、それ聞いて、今度はぼくがちょっとぎょっとする)
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コメントありがたく母ともども御礼申し上げます。母に負けたと思ったメモがなくなった後に出てきました、曰く・・・お前のことだから〇〇のことも許し、また敷居をまたぐことになるだろう、でもね、油断するんじゃないよ…ですと、 、、アネがこのメモの意味を知るのはもう少々時間がかかると思います^_^