(在庫一掃、蔵出し記事です、運営側システムの何らかの事情でアップできなかった分です)
8月12日(土)
(初期万葉論/後期万葉論:白川静著:中央公論新社2002年9月/11月初版発行)
初期万葉論からぼちぼち読み進めていくうちに柿本人麻呂を取り上げる頃から少しずつ面白くなり、、作歌の「目的」に言及するようになると活字がだんだんと目に入ってくる、つ、つまり身を入れて読むようになる。持統天皇の気持ちを忖度して作歌、柿本人麻呂が、のんきに自然や自身の心象風景を詠んでいたわけではないことが了解される。
歌に込められる想いや願い、鎮魂と招魂、を儀礼と伝統に則り歌によみ込むプロ、権力構造の中に占める自分の役割をわきまえてこそお声がかかる、まさに言霊を介して霊との交感、相まみえる世界、、か。
のんきに鑑賞している場合ではない… 一例を引用します(第三章 呪歌の伝統) 119ページ
東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
斉藤茂吉はこの歌を「混沌の調を成就して居る」といい、西郷氏は「荒涼たる古代的自然の脈搏が伝わってくる」という。東に曙光が立ち、西に月かげが傾くま冬の払暁の光景を、東京天文台に照会して、その日は陰暦11月17日、太陽暦では西暦692…中略…それは冬至前後の午前6時ごろ「大嘗会への中冬下の辰の日卯の刻」に近く、その「即位儀礼の祭式的時間における朝に一致する」という。一年のうち、最も夜の長い日の夜明けに、自然暦の上における生と死との転換、生命の授受が行われる。それが天皇霊の授受に関して行われるのが大嘗会であった。古代において、祭祀が夜をこめて行われるのはそのためであり、またこの安騎野冬猟歌において旅宿りを絶対とするのも、その呪的儀礼が霊の授受を目的とするからである。…引用以上
124〜125ページ
…前略…人麻呂の歌について、従来カオス的とかディオニュソスということば美化で理解されているところのものは、このような古代的呪歌の伝統に基くものであった。それは古代的なもののもつ深さであり、古代的なものが滅びるとともにまた失われてゆく美である。それで人麻呂の完成した呪歌様式としての長歌は、人麻呂の死とともに終焉を告げる。人麻呂の若干の追随者は、むしろ時代と様式との絶ちがたい関係を、歴史の証人として示すにすぎなかった。そしてその古代的なものの喪失の上に、はじめて抒情歌や叙景歌の成立が可能となる。したがって人麻呂や赤人の作品のうちにそれを求めるのは、はじめから非歴史的な要請であるといわなければならない。これらの歌人たちはなお、古代的な呪歌の伝統のうちにあるものであった。
引用以上
だそうです。
(今日は後期万葉論を読み進めたいと思います(字面を追っているだけというのが実際のところ)万葉集を取り上げてその意味を分析する白川静の丁寧な分析は素人の僕にとっても面白いのですが、、長歌、短歌とも、リズミカルな口調の良さに支えられて千年の時を経て今に伝わっていることを思えば、正確な歌の意味とは別に、現在にまで伝わってくるそのこと自体がまさに言霊たる由縁なのかなぁと思いました)
人麻呂や額田王は実際に歌人として類稀な才能に恵まれた人だったみたいですが、彼/彼女たちは皇族つまり天皇・皇后・皇子のゴーストライターだったんじゃない?これらの天才歌人の生涯についてあまり知られていないことも、なんだか秘密を守らせたかった皇族の陰謀だったような。
現在に至るまで愛されている5・7・5・7・7の短歌とは別に、長歌のリズムも日本人の感覚にぴたりと来ますが、平安時代からは失われていたそうで残念。
ちょっと話が飛びますけど、先日行ったスロヴェニア、途中でオーストリア人の友人が「あそこに見える山がスロヴェニアの白・青・赤の国旗に使われているトリグラフ山だよ」と教えてくれました。トリグラフって三つの頂って意味なんですって。
その山を見ながら
・香具山と耳梨山(みみなしやま)とあひし時立ちて見に来し印南国原(いなみくにはら)
という大和三山の歌(中大兄皇子作らしい)を思い出して、うーん、やっぱり私って日本人、と自覚しました。