(在庫一掃、蔵出し記事です、運営側システムの何らかの事情でアップできなかった分です)
7月21日(金)
いきなり本からの引用です↓
明治5年(1872)、政府は、東京上野の森の古木、大木を伐り倒すという挙に出ようとしたことがあった。上野の森には、徳川累代の墳墓があるそれを取り除こうとしたのである。同じく歴代の墓地である増上寺境内もこの例外ではなかった。この措置を見て、東京在住のひとりの外国人が新聞に投票した。「いかなるわけで、墳墓を壊すのか。幾百年の星霜を経た幾百株の大木を、何の故あって倒すのか」。彼はそう政府に問いかけて、「それは野蛮なふるまいであり、文明国では重大な罪である」とまで極言して政府を難詰した。幸いこの計画は中止され、続いて翌年には上野、浅草寺、飛鳥山、深川の4カ所が「公園」として指定され、樹木は保全されることになった。
それから約80年後、震災と戦災を免れた上野の山に、またひとつの難題がもち上がった。不忍池をつぶして野球場にしようとする企てである。プロ野球の関係者から提案されたという。しかし、このときは、明治の初期とは異なり、政府は直ちにこの動きを封ずる措置をとっている。昭和31年(1956)制定の「都市公園法」がそれである。こうして、上野の山は、都民の憩いの場、大木、古木を擁する都内有数の森として維持、保存されることになった。いま上野の森を歩けば、周囲3メートルも4メートルもあるケヤキやクスノキなどが鬱蒼と茂っている。
昭和47年(1972)公園の下に京成電鉄の地下駅をつくったとき、邪魔になる木はすべていったん他の場所に移し、工事完了後再び公園内に戻す措置がとられた。移植した本数は256本で、伐り倒した本数はわずか6本と記録されている。この時、移植の難しい1本のケヤキが伐採されずそのまま残された。以前私がこの木を測定した時にはこのケヤキは周囲2.4メートル、高さ約20メートルの大木となって生い茂っていた。残された1本のケヤキが、上野の森に寄せる都民の思いを現在に伝えている。
(上記引用は下記の本からのものです↓
森林文化への道:筒井道夫著:朝日選書529: 1995年6月第1刷発行、93〜94ページ)
上野の杜に引き寄せられるのは美術館や文化会館といった施設だけではなく1本の大木だったりするわけかな…ハハハ。東京に上野の森(杜)があってしみじみ良かったなぁと思います。
鎮魂の杜、、早朝大木に抱きついてこようかな…逆かな?抱かれる?
シュヴァイツァ―が「生命への畏敬」と題してあらゆる動物の命の尊さを訴えた一文をものしていますが、本来ならここに植物も含まれるべきだと私はいつも思っています。人間がどれほど植物の恩恵を受けているかを忘れてはいけません。
日本には木霊という言葉もあって、大木には霊が宿るとされ、スギや楠にはしばしば注連縄が巻かれています。野蛮な外国人はそれを「偶像崇拝」とか呼んで馬鹿にするようですが、八百万の神は微小なる人間の力を自覚した日本人ならではの「畏敬の念」を示すものだと思います。
写真は私が4,5年前にスイスの村で撮ったものです。この木のある丘の裾の道をよく往復するのですが、あるときしっかり見てみたいと車を降りて木の傍に行ってみました。子供が木の周りで鬼ごっこをしているのも面白くてパチリ。
宿に帰って調べると、これは杉の仲間のセコイア、正確にはセコイアデンドロンという樹でもとは北米カリフォルニアのシエラネヴァダの原産ですって。それが紆余曲折を経て(英国などを経由して)1866年頃にスイスにやって来たのだそうです。樹齢150年余り。欧州では特に古木ではありませんが、スイス人はこれを「スイスが世界に開かれている」証明として大切にしているそうです。うっかり木霊なんて言葉を使ったら、一神教に反するから?