テレビ見ない新聞見ない人に会わない文字を手で書かない音楽を聞かない歌わない絵描かない
テレビおもしろくない新聞大した事出てない機嫌の良い顔になかなか会えない無表情な自分をさらけ出したくない文字を書く場面がない音楽を聴く気にならない歌思い出さない描きたい人が現れない
へそまがりみたいにして暮らしているとだんだん面白くなる何故かと言えばいろいろなものから距離を置いていると見えてくるものがあるからだと思うちょっと瞑想するだなんてそんなもんで簡単に後戻りできないほど迷子になった自分を少し取り戻せるからだと思う
いっこだけ例を挙げてみます必要があってというか創業塾に提出するために久しぶりに本当に久しぶりに短い3パラグラフ位自己紹介文を鉛筆で時々消しゴムを使いながら書きました横書きです「量」と言う字が思い出せなくてやっと思い出して書いてみたらどうもバランスがおかしいこれでよかったのかどうかどうもおかしい自信が持てないそもそも自分が書いた字をしみじみ見るともともとうまいとは思えない字が下手になって漢字もおぼつかなくなっている不安になる思い出せない字が多いひらがなも妙によたってるまぐれで形よく書けている字もある!漢字とひらがなの字の大きさが違うのが面白い気がつかなかったけれど全体のバランスを考えながら書いていたとは今の今まで知らなかった
、、、とまぁこんなことにも…世間からも自分からも?距離をとっていると…改めて気がつくことがあり面白い
句読点をつけるの忘れてました…これはほんの冗談です大変失礼しました😥
(無表情な自分と先ほど2段落目で言いましたが…これは2代目の相棒に言われて気がついたことです、冷たい顔、を婉曲的に指摘してくれたのだと思います。動物は無表情になって「石」にならなきゃいけない場面もありますね、敵をやり過ごすと時とか、動静をはぐらかす時とか、今お手洗いで腰掛けていて、そんなことに気が付きました、だからどうしたと言うツッコミはなさらないでください🤫😓)
優しさの定義は、相手に寄り添う心と誠実さではないかと思います。
誠実さの欠けた優しさは嘘っぽくて信頼できませんよね。
若いころ、気分が落ち込んでる時ほどハイテンションだったことを思い出しました。ちょっとだけ躁の気があったかも?
でも、誰しもどこか他人と違う面があるのが普通なのでは?
偉い学者さんも芸術家も変わった子供だった人が多いですよね。
いちまるさんって昔捉えどころのない不思議な人だと思ってましたが、この欄の投稿やラインを見て、本当に優しい人なんだな~と思いました。これは不思議ではなく確定の印象です。
人を繋ぐことも大好きですよね。
句読点というのは「近代化」と共に登場したもので、昔はそんなものなかった。なくても読めた。といいますが、昔は筆で巻紙なんかに描いていて、「ここでちょっと一息」というときや、話題を少し逸らすときには、スペースをもたせれば良かったですからね。でも、一息ついて下さい、というのは書く側が決めることではなくて、読む人が自由に息をつけばいいんだから、あまり句点を入れられると煩わしいという声もあります。
いろんなものから距離を置いていると見えてくるものがものがある、というのはその通りだと思います。だから兼好法師や鴨長明など、半分仙人みたいな(いや、仙人ぶった)暮らしをして、孤高の暮らしみたいなフリして随筆を書いたわけですね。もっとも三大随筆のもう一つ、枕草子の納言ちゃんは、もうどっぷりたっぷり宮中の社交三昧に浸って、男の弱点ついてきゃっきゃと喜んだりしていましたけど。
俯瞰というのは全体像を把握するうえで重要なんですね。この頃古い友人のこれまでの人生を聞いて、私など「すごいなあ、えらいなあ」と感心することしきりですが、本人は全く詰まらない平凡きわまる人生だったと思っている様子。こういう場合にちょっと距離を置いて他人の目で自分の人生を眺めたら、お、悪くないな、と違う見方ができるのに、と残念です。