(昭和30年代頃の私の思い出)
その日、父は台東区の千束通り商店街の端っこにあった個人病院へ運ばれてまもなく亡くなりました。私は導火線に火がついたように泣きました。大変悲しかったことですがもう一つ担当医の落胆した表情、その横顔が小学生の私に強烈な印象を残しました。絶望に打ちのめされている大人を初めて見たように思いました。それは生きていく上の恐ろしい深淵を見たようでした。
父の告別式の夜、東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールチームの活躍に日本中が沸き返っていました。地方より弔いに来てくれていた親戚の人たちは、試合の行方が気になりなかなか列車に乗ることができなかったそうです。その時母は32歳、私小学校3年生、弟6歳、下の弟1歳。通いの従業員の方が2人、住み込みの方が3人いました。皆両親と同じ東北の出身者です。これから私たちはどうなるのか?材木屋木村産業はどうなるのか?父恋しさと寂しさと不安でいっぱいでした。ところが、そんな気持ちを抱えながらも私は東京オリンピックの閉会式に感動していたのです。
(予告 : チャコちゃん日記は次の10回で終了となります。)
昨日うっかりして、5、6回目の禁酒を解いて、酔いが回って油断してました。びすこさんのコメントです。ちょっとお茶しませんか…と言うほどの距離にはいらっしゃらないとは言え… KBCのメンバーでらっしゃいますよね。15 、 6歳のときの病気の1年間とは何か。自我の目覚めは個人差はあるとしても…早熟な人で10歳とする。ざっと考えて15歳の1年間は15 − 10 = 5… 自我の目覚めから考えて5年間の人生のうちの1年と言うことになれば… 15歳の全生涯における急速な上り坂の人生の5分の1と言えないこともない。人生の5分の1!何が言いたいかと言うと多感でいらしたろう15歳の日記を開いて、見てみたい。出歯亀趣味です、あはは。そのうちエピソードお聞きできるかなぁと密かに期待しております。
歳をとれば悲惨な場面に何か考えが及ぶと思っていましたが若い時も今も変わらず何も解りませんね。年齢にかかわらず事態を受け止めなければならないことの過酷さだけが何とか想像できるような気がします。周りの人の同情だって充分役に立ち、ほんの少しでも支えになるとは思いたいです。
病気で苦しむ人、家族の死を悲しむ人、そういう人達を横目に、他の人たちは見世物や娯楽に興じる。これはどこでもよくある現象で、私も15,6歳で経験しました。病気でしばらく、1年ほども入院していましたが、病室の窓のすぐ外に塀があって、その向こうを同世代の若者たちが笑ったりからかったり、楽し気に通り過ぎて行く。ああ、自分が今こんなに辛いことも、あの人達にはまったく関係ないんだ。当たり前のことですけど、早くにそういう現実を認識したことは後年かなり参考になりました。自分が恵まれていて当たり前、とは決して思わなくなったことも、今思うと貴重な教訓でした。