(昭和30年代頃の私の思い出)
当時は、日本の高度成長時代でした。銭湯の建築が盛んに行われていました。実家も月にいくつも請け負っていたらしいです。年間にしたら大変な数だったと思います。父はそこで使われる大黒柱の下敷きになってしまったのです。
東京の銭湯には神社仏閣のような宮造りと呼ばれる様式が多いです。以前はその様式の造りは全国の銭湯に共通するものかと思っていましたが、どうもそうではないらしいと気がついたのは地方に住んでいた時でした。
宮造り銭湯は実家のお得意様、大工の棟梁、飯高作造さんが手がけていらっしゃいました。以下はミネルヴァ書房:町田忍著「銭湯」2016年刊131ページから132ページより引用しました。少し引用が長くなりますが…
(これより引用)
飯高作造さん(1930年12月生まれ・故人)は終戦直後から、長年銭湯をおもに手がけてきた大工の棟梁だ。ー略ー
「世のなか、どんどん変わってしまったからねえ、銭湯ねえ、何軒ぐらいつくったかなあ、控えてないから。家を建て替える時に、取っておいた図面も何も失くしちゃって」といいながら昔のことを話してくれた。飯高さんは栃木県出身で、1945年、15歳で上京。はじめは中目黒に住んだが、終戦時、進駐軍が来たら男はみんな去勢されると聞いて田舎へ戻り、1年半後に再び上京。今度は八丁堀に住んで鮫洲の飯場に通っている時に、たまたま人から声をかけられたのが縁で、浅草にあった津村享右さん(故人)の事務所で仕事をすることになったという。津村亮右さんは、宮大工の技術を持っていた方だ。関東大震災によって多くの銭湯が被害を受けたが、その復興期に、みんなの元気が出るようにと、それまでになかった豪華な宮造り銭湯を建てたと言う。(引用終わり)
恐れるものが多い方が人は謙虚になれるような気がするんですけどどうでしょうか?バラエティーが多ければ多いほど僕なんかは安心してしまいます…。
事故や病、障害などの「悪いくじ」からの加護を祈る気持ちは普遍的なもので、職人さんは直接その種の危害にさらされているので「縁起担ぎ」をするのでしょうけど、成功に続く没落、才の衰えなどの恐れはインテリでも科学者でも抱いていて、きっとみんな何らかの形で(こっそりと)祈っているのでしょうね。それにしても、縁起担ぎのバラエティの多さ。みんなよくここまでって、その想像力・創造力に関心します。
事故は相当多かったと思います。職人は縁起を担ぐので…母に聞いた話ですが、あるいはご存知かもしれませんが…きゅうりのお新香でも三切れは出さない→身を切る。すり鉢→する(損する、擦る) →あたり鉢の呼び変え。これは直接関係ありませんが庭に実のなる木は植えない→成り下がる、つまりは縁起が良くないと言うわけです。あと朝茶は身を守る、怪我を避ける、、、なんて言ってましたよ。仏壇の所には火打石セットまであり、江戸時代にタイムスリップしたようでしたね、今思うと、、、。
銭湯・・・行ったことがないので、小説や歌(もちろん神田川)などから想像するしかありませんでしたが、「宮造りの様式の銭湯」となると、ちょっと夢の世界っぽいですね。それにしても、大工仕事って大きな危険を伴うものなのだと改めて感じました。
ちょっと話がずれて眉を顰められるかもしれませんが、例の「ハイジ」の物語、ハイジのお父さんも大工で、やはり事故で亡くなるんですよね。そういう背景はもちろんアニメなどには出てきませんけど。