(昭和30年代頃の私の思い出)
実家のある橋場(地名)は江戸通りにあり、マンションなどのビルが立ち並び、今は何の風情もありませんが、私が小学生の頃は、とても趣きのあるところでした。
家の前には、通称とかげ山と言われていた小さな山があり、ほんのニ階屋位の高さでした。でも、子供たちにとっては、とても親しみのある山だったのだと思います。その山に続いて原っぱが続き、その先は隅田川が流れていました。
その原っぱのとなりは大きなお屋敷日下部邸がありました。どんな方が住んでいたのかわかりませんが、立派な門構えのお宅でしたので、記念に残す写真はその門の前で撮るのが近所の習わしです。通りの先にはホテルオータニの創設者、大谷米太郎の屋敷がありました。
戦前は林銑十郎邸(第33代内閣総理大臣)や橋場荘という有名な料亭や、主役脇役の俳優、浪曲師、果てはどこかの旦那のニ号宅が格子戸つきで路地の奥にあったという話もあります。
実家の左隣はコークス屋。コークスとは石炭を加工して作るもので、昭和30年代頃までは活躍していました。そこの奥さんは大変にけたたましい方で父は苦手なようでした。
ある日、そのコークス屋の奥さんが、、、「奥さん! 目の中にゴミが入った〜、母乳母乳!」と実家の事務所に飛び込んできました。父はもちろん一目散に退散していましたが、私はそんなおばさんがこわかったです。目の中に母乳を差す!?と言う行為を想像するとなんとも奇妙な感じがしたせいもあったと思います。
そもそもニュースを見ないので、びすこさんのコメントで実態が見えてきました ありがとうございました😊このスタイルは昔から変わりません、人づてにニュースを聞くのは面白いです。びすこさんの身近な方々のお話も問わず語りにおおうかがいできるのが一番伝わって参りますね^_^
なんか懐かしい!!うちのおじいちゃんの「副妻」を看とったのは、おじいちゃんの末娘(父の妹)でした。血の繋がりもないのに、若いときから不良娘で金使いが荒くて結構家族に迷惑かけたのに。昨年90歳で老衰で昇天したのは、お妾さんが見守ってくれていたから?
今の人たちは、大村家やわが家のおじいちゃんに激高し憤慨し責めまくるでしょうけど、そういう世の中の実態を目にして、子供心に何も分からないながら大きくなって行くのは、別に不幸なことではないと思います。ね、いちまるさん。
あ、そうそう、この場を借りて。渡辺直美というタレントを豚に譬えたというのでオリンピック演出家が辞任に追い込まれたでしょう。今朝がた日経の電子版で見て、私としては「あら、まあ、不注意な人ね」程度でしたが、それがなんとドイツの高級紙で直ちに報道されたんですよ!!大衆紙ではないんですよ!!それも直美さんの大きな顔写真付きで。彼女はドイツでもすっかり有名人になっちゃいました。昨今はコロナによる閉塞感のせいか、ニュースの種が枯れているのか、こんな洋の東の端のニュースにも飛びつくんですねえ。いまや世界の大多数が晒し台を準備して哀れな不届き者を待ち構えている感があります。
ところで、改めて彼女の体形を見て、今は30歳だからまだいいけど、このまま行くと健康が損なわれるのでは、と、そっちの方が気になりました。こういうのを老婆の老婆心というのね。
そういう洒落たお宅は余裕のある人のところだと思います。僕のおじいちゃんのとこは一軒家でしたけど隣が材木の刻み所、大工であるおじいちゃんの作業所でした。兄はそこへ行って、向こうの子と遊んでいたそうです。僕も行ったことがあります。おばあちゃんはもちろん本妻ですが、月々のお金を持って来させて、その他は敷居を跨がせない方針でした。それも僕らにとっては明治の女はそういうものだと思っていました。おじいちゃんと言うのは月に一回お金を届けに来る人…と言う感じでした。おばあちゃんが亡くなった時おまきさんという二号さんがそばで泣いていたのを今思い出しました。
二号宅・・・大都会でも地方都市でも、ちょっと小ぎれいな家は「妾宅」だった時代がありますね。私の記憶にも残っています。そういう家が売りに出されて見に行ったという随筆を読んだことも。