8月10日(日)
不安定状況が日常的に続く、、これは苦しい。
閉塞状況が日常化すると、体もおかしくなる。
誰かがどこかで生活に風穴開けて欲しい。15年ほど前に出た本を、とりあえずテキストとして読み出した。
日本の各政党の政策項目の中に、ベーシックインカム、ベーシックペンションなどがほかの緊急重要政策とともに語られていることがわかった。ベーシックインカムなどと大上段に構えるのではなく児童手当、住宅手当等の名目でドーンと収入を増やし、困窮世帯の不安感を取り除くだけで、意欲も湧くし、アイデアも湧く…と脳天気な僕は考える。
国の運営の非効率を正し、浮いたお金で国民の収入の不均衡による不安感を取り除くなら、不安感を取り除くための政策を最優先してもいいだろうと僕は思う。なぜ政治家はそのように考えないのだろう。政策立案者は実験をしてはいけないのだろうか。実験に失敗はつきものだ。
失敗を勘弁するのも国民の余裕だ。不安感を取り除き、とりあえず余裕を取り戻すことが今日本に求められていると僕は思う。生活に追われていることは変わらなくても、夢があるかないかで人は変わる。絵に描いた餅をいくら示されても、腹は満たない。
先の本を読んでいて、考え方がうまくまとまっているなぁと思った部分を抜き書きいたしました。来年は未来委員会と言うグループを作りたいと思っています。大人にだって未来は必要だ。
まして、子供たちに明るい未来展望を示せなかったら、大人の意味があるだろうか
ぼちぼち読み出した、ベーシックインカム入門(無条件給付の基本、所得を考える)/山森亮/光文社新書2009年2月初版から、ちょっと引用します。市井のエコノミストで、イギリスを中心に活動しているジェームズ・ロバートソンに関する記述で、以下は、彼の主張の1部です。
「未来の仕事」と題した1985年に出版された著作で「未来の仕事」と題した1985年に出版された著作で、「雇用としての仕事を組織する産業時代の方法」を以下のように批判する。
210〜211ページ
、、、第一に、雇用は家庭と仕事を乖離させ、また仕事をするうえでの当人の独立性を損なってきた(依存としての雇用)。第二に雇用は男性的で非人格的なものとして組織されてきた。第三に、雇用中心のシステムのもとで雇用されない者(失業者、主婦、子ども)は劣等感をもたされてきた(雇用の排他的的性質)。第四に、雇用中心のシステムの下での分業と専門化の進展によって、「ローカルな仕事が、ますますどこか他所でなされる決定にコントロールされる」ようになったという。
ロバートソンが雇用に代わるものとして提示するのが、「自身の仕事」という働き方である。
「自身の仕事」は、目的のある重要な活動、そして人々が自分自身で組織しコントロールする活動を意味する。それは、有給かもしれないし無給かもしれない。それは人々が個々人として、また世帯メンバーとしておこなう活動である。それは、いっしょに働く人びととのグループによっておこなわれる活動である。それはまた、特定の地域に住んで、ローカルな必要にあわせてローカルに働く人びとによっておこなわれる活動である。個人と世帯とっては、自身の仕事は、自己雇用、世帯と家族に必要不可欠な活動、ドゥ・イット・ユアセルフとか自分自身の食糧の一部を育てるとかいった生産的な余暇活動、そして、ヴォランタリーな仕事への参加を意味するだろう。グループにとっては、自身の仕事は、たぶんコミュニティー事業体か協同組合で、あるいはそのほか個人的な関心があって個人として重要だと思う、社会的、経済的、環境的、科学的などなどの目的のある様々な活動で、パートナーとしていっしよに働くことを意味するだろう。地域にとっては、自身の仕事の重要性は、それが、ローカルな自立と、ローカルな仕事によって、ローカルな必要をみたすローカルな能力の増大と、外部の雇用者や供給者への依存の減少に貢献することにある。(ロバートソン「未来の仕事」、1985年)
引用以上
40年前の記述ですが…ふと地産地消の言葉がよぎる。40年の間に、僕らは気がつけば、以前の生活からずいぶん遠のいてしまった。
僕自身を考えてみても、効率を求めて国をまたいでの分業の恩恵に預かっている感覚があり、そしてそれを何の疑問もなく受け入れていることに洗脳されてしまって、洗脳されてしまっている自覚すらないことに僕自身ちょっと驚きます。
例によって、僕の風が吹けば桶屋が儲かる式のこじつけで考えると…分業をよしとする考えが、社会のあり方を歪めていることに気がつきにくくなっている。経済効率優先の論理の暴走を止められなかったためにその結果示された事実の前に、僕らは思考力を失っている(僕だけであると思いたい)。
つまり、教育は学校任せ。食料確保はスーパー任せ。稼ぐところはそれぞれの職場任せ。家庭の運営は、それぞれの世帯任せ。
分業の効率優先を進めるという考えにストップをかけられなかったツケが生活の実態を見えにくくしている。いかにも責任分担でバランスが取れているように一見見えてしまう。
諸々のしわ寄せが行き着く先はどこだ。各自の責任とともに囲いこまれてしまっているものがそれぞれの家庭ではないのか。たとえ一人暮らしの場合でも。自己責任という請求書。発行先は一人ひとりが醸す同調圧力(私見)。
それぞれの家族に抱え込まれた問題は、その原因に思い至れば本来は世間の大問題なのに、家族の中に閉じ込めて知らんぷりを決め込んでいる。閉じ込められた家族が声を上げられないのはなぜか。
仕事が細かく裁断されて、責任も分断されて、考え方も分断されてしまって仕事の機能不全を起こしているからではないのか。
例えば、子供の貧困が取り上げられる。意味がわからない。そこまで家族を分割する必要は無い。子供に焦点を当てて貧困を逆照射(あぶり出し)しようとする意図だろうとは思いますが、言葉の乱用だと思う。各世帯の貧困であり、社会の貧困である。
それは、社会問題なのに各々の家庭の自己責任にしてしまう責任転嫁ではないのか。
分業を割り当てられてしまっていることに疑問を感じにくいという事はもう洗脳の完成に近い。
分業の行き着くなれの果ては、まもなくやってくる時代が証明してくれる。それじゃあ手遅れなのだ。
ベーシックインカムを単独で取り上げても合意が得られにくいのはアプローチが逆だからだと思う。分業のしわ寄せがどこに行っているかを自覚することが先決だと僕は思います。社会システムの欠陥を個人に責任転嫁するなと言いたい。
来年の8月1日までに、まだ355日ある。ゆっくり勉強していきます。
日本の新聞のニュースでちょっと気になったのが、夏の甲子園で広陵高校が出場を途中で辞退したという件。いろいろ聞いてみると、まあ、どうして高野連は早く手を打たなかったのかと思い、おそらく主催の朝日新聞などが出場校の減るのを嫌がって無理やり「たいしたことない」という方向に持って行ったのだろうと推察しました。(今、邪推、といいそうになって、いや、これ邪じゃない、と思い直しました。)
私はとっても意地悪でひねくれたところがあって(ええ、もうとっくにご存じでしょうけど)、スポーツ界ってヤクザ集団に似ていて大嫌いなんです。オリンピックでボランティアなどやる人の無邪気さ・素朴さが信じられない。あんたたち、体のいい奴隷になってるのよ、分かってるの、と言いたい。
これは私がスポーツを一切やらない、できない、という生まれつきの障害から来ている面があることは認めますが、子供の頃から「清々しい」「爽やかな」スポーツマンの話を聞くたび、へん、そんなのでっち上げに決まってるわ、と思っていました。同世代でも高校・大学でスポーツのクラブに入っている人の話を聞くと、先輩後輩の区別がはっきりしていて、年下は年上に従わねばならず、何より素直に受け入れなくてはならない。素直という言葉は私の辞書にはないので、もう最初からそんなクラブとは10キロ以上の距離を置いていました。
SNSでいろんなニュースが広がることに問題がないとはいいませんが、大新聞・大手メディアの美談の報道に真っ向から挑む姿勢は、今の社会では必要だと思います。みんな(大衆)が賢くなって、どんなTV報道も新聞のニュースも、眉にたっぷり唾つけて、話半分どころか話一割で聞くという態度が定着したら、SNSの出る幕もだいぶ減ると思いますけどね。