7月13日(日)
(今回も微助っ人クラブメンバーに向けてのコメントになってしまいました、、)
失礼な言い方になるかもしれないけれど、たとえ友人といえども10年位付き合わないとその人が見えてこない。
その人の取り扱い説明書を作るまでにそのぐらいの期間がかかるということなのだと思います。
(人間は物じゃない?いいえ、物だと思います。別に唯物論者だからじゃないです。物以下に扱われているという話は長くなるので今日はやめ)
もちろん、相手の方にとっても、僕はモノとして、その対象になる。つかず、離れず付き合っていくうちに…僕自身の変化したところ、変化しないところ、全て相手はお見通しと思った方が間違いないと思う。岡目八目。
人間が人間を理解する仕組みなんて多分誰も考えていない。生まれた時から選別は始まっている。選別装置は自分が考えたわけではない。デフォルト/標準仕様、と仮にしておく。
同志を集める性質が生まれつきで、僕らに比較能力があるのは、またはそれしかないのは、比較は誰の目にも明らかで、誰でも持っている選別装置だから、世代間の分断や貧富の差による分断も、実は成るべくして成っている、または作っている(ここら辺はどんどんツッコミを入れて欲しいところ)。
ところで、微助っ人クラブが100人近くになってきたので、そろそろクラス分けという話ではありません。
放っておけば、ただの仲良しクラブがあちこちにできておしまい…これでは今までの繰り返し。そのために集まったわけではない。誘われたから参加した。それでいい。
集まってみたら、そこはミニ世間だった。大きすぎて、何が何やら把握しにくい全世界の縮尺版と考えてみる。いろいろ実験したくありませんか?
僕は、いろいろな提案をしていきたいと思っています。今日は試しに1つの提案を試みたいと思います。
僕ら一人一人が人材。人身御供になったり、人柱としての人材ではなく、得意不得意やりたいことの一覧表は、メンバーのスペック/才能一覧表より優先すべき仕事だと思う。
そうしないと、僕のように高卒で、資格そのものも絵に描いた餅で実践に基づく裏付けがない者の立つ瀬がないからだ。大学を出ていなければ、社会に出て行くときの差別化を計れないなんていう固定観念そのものが、気に食わない。
そんなことで生まれる劣等感なんてこの際、邪魔なだけだ。そんな劣等感は無用。次の一歩を竦ませる/すくませるそんなモノきれいさっぱり捨ててしまえばいい。捨ててしまわないと話が始まらない。
新しいことに挑戦するときはそんなものは無駄と思ったほうがいい。モデルがないのだから、新しく作り出すしかない。使えるのは捨て身の体…なんちゃって。
新しく作り出す方が実は簡単だと思う。ビッグデータの処理過程の逆のやり口。以前のプロセスを分析する必要がないからだ。
手がかり足がかりは自分で作る、例えば口からでまかせ、一つ一つトライしていく。その際いろいろな意見が分散される結果、いくつもの試行錯誤が微助っ人クラブなら集中的にできる。そのためのミニ世間。
練習問題も、それぞれの人がそれぞれに作る。
例えば僕の場合…何かやりたい人、自分の興味を進めたい人のためのやりたいこと一覧表/To Do リスト…の中に会社を作ることがあったとする。これを積極的にやるという意味ではありません。単なる思考実験。
例えば株式会社にする場合、会社作ってどうするのということが最初に問われる。そんなやりたいこと一覧表は実際に登記上必要かどうかよりも、、夢は、、何をさておいても描く必要はあるだろう。まずそこからスタートしよう、その際、異端異論は積極的に聞いていこう。間違いなく意見は分散されると予想される(希望的観測)、なぜなら、そこはミニ世間だから。
頭の体操…株式会社を設立する→設立してから何をやるか考える…こんな簡単なことすらやった人は多分いない。ペーパーカンパニーを作って詐欺を働く連中位なものだ。
さぁスタートだ。会社を作ってどうするか?
例えば、株式会社なんて1回設立してみれば、作り方も登記方法も全員が直ちに理解する。
役割分担するから、話がややこしくなり、役割分担しないから、誰でも自由に発想して話を進めるのが簡単になって選択肢が増える。
だったら…わざと難しくする。その方がゲームが面白くなる。
全員が株主、全員が取締役、社員がいなくても、社会保険には加入義務がある。そもそも法的にそんな会社の存在が許されるのか、、法的には問題がないみたいです。
17世紀のオランダ東インド会社を発端とする株式会社組織はなぜいまも継続しているのかその理由もわかる、、ほんとかや。
目新しいアイデアじゃなくていい。温故知新。出たとこ勝負。ひょうたんから駒。風が吹けば桶屋が儲かる屁理屈こね回してやる気が出れば言うことなし。要はやる気の問題だ。やる意欲が出たら後は体力。
能力なんて買えばいい。お金がないなら頭を下げて頼めば良い。どこまでも気楽な僕です。
やることの中身、コンテンツ次第ではNPOでやった方が良いこともある。この他にもちゃんと社員が募集できる位の経営基盤ができるまでのNPO設立とかは他の詳しい方が立案してくださいませ。
アイデアの発想装置は微助っ人クラブの中に既に出来上がっている、だってそこはミニ世間、見渡せる世間、一望できる世間、、仮に誰かがその世間を説得できれば、もっと広い世間も説得できる、三段論法。
既存のメディアの紐付きでない芸能プロダクション、ウェブを利用したショップ、一般廃棄物の内の家庭ゴミのリサイクルを考えていらっしゃる人、アーティストもメンバーの中に既にいらっしゃいますよね。
気楽なだけが取り柄のこのクラブ、使い方それぞれ…そもそもこの先継続しているのかどうかもわからない…ゆるくて頼りないつながりではありますが、それだからこそ気楽に発言してみれば、何を言ってもたくさんの人が気楽に聞いてくれる。
失敗するということの意味がわからない。もともと、ただ集まってみただけで、ぐずぐずに崩れているのにこれ以上崩しようがないから…ちょっと古い冗談ですけど本当でしょ。
どこまでも気楽な僕らは何をどう発想するのだろう、考えるのだろう?
気楽は売り物になる、自由は売り物になる。売り物にするためには加工しなければならない。どうやって加工するか?
例えば教員不足。どうしたらいいAIに聞いてみよう。
自分で考えないでAIに聞く。試しに聞いてみると、こちらが発想しそうな事は全て網羅されている。深く考えない人が増えている原因はここにある。条件が与えられてしまう怖さ。この範囲で考えろ、、ばか言ってんじゃねーよ。
問題点をすぐに指摘してしまう優秀なロボット。人間の頭を使わせない仕組み、問題が山積してしまうその理由の第一はそれだ。つまらない知識を詰め込んで、発想させない社会の出来上がり。
これ100分の1の意見です。念のため。
皆さんもTo Do リスト作り始めてください。一銭もかからない遊びです。地球の温暖化や空気の汚れも気になりますが、僕は半径500メートルに生息するいろいろな意味の環境の方に興味津々です。
雲を眺めたり、ご近所の花植えの具合を覗いたり、地域猫のご機嫌をうかがったりすることが面白いです。
(昨日も夕方気がついたら、2階の縁側の外の小さなベランダに毛むくじゃらな動物が映っていた…たぬき…まさか…覗いてみたら、向こうからも僕の顔を覗いている初めて見る豊満なペルシャ猫?どこかの飼い猫だろう、余談)
小さなことから始めよう。微助っ人遊びで、遊ばせてください。皆さんもどうぞ遊んで面白かったらおすそ分けしてください。よろしくお願いします。
誰もがすぐに答えを用意できる世の中なんかくそくらえ😜
同調圧力は、集団ハラスメントと呼び変えれば、裁判の対象になる。訴訟を起こせばいい。
教員が足りないのなら、優秀な生徒に先生のアシスタントをやってもらえば良い。人材はそこら中に転がっている。言うだけはただ。
勉強が嫌なら勉強をゲームにしてしまえばいい。実際にもそう動いているんじゃないの?もっと易しい、優しい練習問題をたくさん作って基礎体力を作るべき。勉強の仕方が間違ってる。勉強なんて、きっとスポーツと同じだ。何の根拠もありません、言いたい放題。
遊ぶんなら一緒に遊ぶ。大人が子供を遊ばせるのではなく、一緒に遊ぶのだ。遊びの天才たちに大人が遊んでもらう。絵本を読んでもらう。ご飯を作ってもらう。
さぁ、みんなで遊ぼうよ🤪問題をゲームにする会社、問題を作る会社、作ろうぜ🤨
以上、長々とダラダラと話を進めてきましたが、、図らずも微助っ人クラブの取説の1部にもなっていますかね?なんちゃって、ふふふ。
(微助っ人クラブに問題を提起すると、その問題が個人を離れて、空中に浮く、、集中攻撃を受けても誰も傷つかない。そんな会社あったらいいな。もちろん議論そのものにはお金を絡ませない。成果を独り占めにしないためだ。延々と議論が続く中、気がついたら、解決方法の糸口が掴めていた。そんなふうに展開したら面白いだろうな。。。独り言)
(昨日は、午前中は四つ木御殿で数人集まり、そば打ちの会、、打ちたてのそば、次々に茹で上がってくる蕎麦をわんこそば状態で、こちらも大急ぎで食べる。僕は他の人の分まで食べる。Iさん、Jさんが仕立ててくれた蕎麦を目一杯食べて、お腹がパンパンになったところでジムへ行って帰ってくると自宅(ゆず御殿)では、8人位の方が集まって、操体法教室が終わった後でした。狭い生活圏の中のちょっとだけ広い世間の風が感じられて、なんだか愉快でした♪)
次回の投稿は、次回の千夕報まで待とうと思っていましたが、面白いことがあったので報告させて下さい。
ほんの今朝のこと、朝食のとき亭主がメールをコピーして持ってきて、見ればそれは彼の会社が社員の作業着その他を購入しているテキスタイル会社の社長からでした。
社長というのは正しくなくて昨年1月に息子と娘に会社経営を譲ったので日本風に言うと「会長」ということになります。名前はヴォルフガング・クルップといいます。彼のお祖父さんが始めた小さな会社を彼は20代後半で受け継ぎ、それから売り上げも従業員数も大幅に増えて、30代で年収45億円にまでなった企業を50年後にはさらに200億円(従業員は1200人)まで成長させました。
うちの亭主がこの企業を応援していたのは、同じ南ドイツにあって、90年代から特に衣料関係は中国の攻勢が激しく価格では太刀打ちできないため地元企業がどんどんつぶれていく中、全面的にドイツ製で行くと宣言し、文字通り100%メイド・イン・ジャーマニーを貫いていたためです。
こういう中小企業は実は政府の税金略奪の標的になることが最も多く、つまり国の財政には大きく寄与しているのですが、ベンツやフォルクスワーゲンと異なり従業員も中途半端だから選挙の票数としては大したことがないため、政府の支援はほとんど期待できません。
夫としては政府からの冷遇への同情もあるし、「ドイツ製」に拘る姿勢に共感があって、社員の着る物、Tシャツ、セーター、シャツ、つなぎ、ベストに加えタオルなど(仕事がら社員は必ずシャワーを浴びて帰宅します)もすべてこの「トリゲマ」という会社から購入していました。さらに、ウチのように火を使う企業では合成繊維を用いた製品はご法度ですが、トリゲマはほとんどが純綿・純毛であることも、ここを贔屓にしていた理由です。
弊社など従業員の数からいって買う量は限られているものの、ぼろ服や火花で穴の開いたセーターなどを着せるのはいやだと頻繁に買い替えるので、顧客としてはなかなか重要だったらしく、年末には高級スモークサーモンなどの贈答品が届くほどでした。
さてこのグルップ氏、功なり名を遂げて資産も150億円を超えるまでになり、昨年そうそうにめでたく娘・息子に後を任せて引退したのでした。こういう人物は、ジーメンスやベンツなどの雇われ社長と違い、「資本主義のブタ」として社会主義者・共産主義者の攻撃にさらされることが多く、左派にとって格好の標的であると同時に、庶民の一部の妬み・嫉みの対象になります。しかしグルップ氏は様々な不利や横やりに抗してここまで来た人だから、有象無象の声に負けていなくて弁も立つので、頻繁にトークショーなどのゲストとして招かれていました。
それが7月になって、大けがをしたというニュース。自分の猟銃で撃ったというのです。自殺?まさか、あの剛毅でならしたやり手男が。何かの間違いだろうと私たちは思っていました。
それが何と、昨日遅くグルップ氏自身から主要顧客に宛てたメールにより、本当に自殺未遂だったことが分かりました。老齢期によくある鬱病で、もう自分の役割は終わった、自分は社会からも企業からも、また家族からも必要とされない人間になった、と思ったとき、生きていくことの意義を失いこれで自分の人生を終わりにしようと考えたのですって。
目下彼は専門家の治療を受けており、軽はずみな行動を恥じているそうで、同年配の皆さんも鬱っぽくなったらできるだけ早く、迷わずに医師に相談して下さい、とありました。
さてそれで、私は夫に「今の会社の状況では、まだまだあなたはやることがあるし、私もあなたに逝かれたら大迷惑だから、鬱になっている暇などないのよ」と言いました。だけど、一見鬱とは無縁の人に思えるものの、あの強気のグルップ氏でも精神を病むことになったのだから、自分の亭主だけは大丈夫などとは言えません。
(それもあって、やがてご隠居さんになっても退屈しないで済むように日本に仕事を用意しています。私のように、自分が誰かに必要とされているかどうかなんて、まるで関心がなくて、とにかく生命が尽きるまで生きているしかない、と思っているへなちょこタイプは、多分鬱にはならないか、あるいは若いときから万年鬱なので、自殺は考えないでしょうけれど。)
そんなことを考えていたら、今度は例の股関節の手術を受けた友人からメールが来て、今は通院してリハビリに精を出していますが数日後にリハビリ入院をするそうで、次のように書かれていました。
「そうそう。昨日は聖路加のリハビリでした。理学療法士さんに入院患者の中では若いほう、と言われてちょっとビックリした、と言ったら昨今リハビリ専門病院でも認知症患者の病棟が出来ることがあるくらい認知症の人が骨折してリハビリ病院に転院するケースが増えているんですって。でも本人は自分の意思に関係なく家族や関係者間で決められたことなので何故入院しているのか、何故リハビリをするのか分からない、ということも少なくないのだとか。療法士さんはそう言う患者さんがリハビリするのが気の毒に思えることがある、と言っていました。リハビリ中痛みを感じたり、思ってもいない動きをさせられるから動機も目的も認識していない場合はそれが辛いだろうな、と私も思います。」
これもまた高齢者の現実ですね。自殺はしなくても、認知症の可能性は大有り。さあ、どうなるか。今の私の課題は、とにかく亭主の面倒を見終わったら、今度は自分の死に備えてまっとうな「後見人」を考えなければ、ということです。