ぼくの名前はトロ。昔世話になっていた魚屋さんのご主人がぼくに付けた名前だ。
何をやってもとろいからトロ、マグロのトロとかけたらしい。ぼくは三本足の犬、とりあえず風来坊だ。あ、そうだぼくが三本足になってしまったわけを聞いてもらおう。
駅前の魚屋には、親子3代世話になった。恩もあるし特に恨みはない。三本足になった今も。だって主人に逆らっちゃったんだよ。主人には絶対服従がきまりの犬の世界では聞いたことがない話。
あれは夏の終わりの夕方の魚屋の店先でのことだった。丸々と太ったうまそうなさんまが店先に並んでいた。のら猫のドラがそのサンマをねらっているのにぼくは気がついていた。もういい歳のじいさんのら猫のドラがこの夕方の人混みの中まさかサンマをかっさらいに来るとは思いもしなかった。何食わぬ顔でドラは人混みをひょいひょいと避けてこっちに来るじゃないか。
ドラはぼくのことを気がついているくせにぼくのことなんかまるで頭にないくらい集中していたな。たぶん腹を空かしていたのだろう。一瞬の出来事だった。魚屋のご主人はサンマをくわえたドラを打ちすえた、と思っただろう。
ご主人がシャッターを下ろす鉄の棒がドラに当たる瞬間、ぼくはあろうことか魚屋のご主人の腕に噛み付いていた。ドラはサンマをくわえて逃げ去った。ぼくはご主人にこっぴどく前足を払われ、右脚が鈍い音を立てて折れた、ごきっ。僕は親子3代世話になった恩ある魚屋からお払い箱になった。以来3本脚、と言うわけ。
魚屋からほっぽり出されて風来坊になったぼくがとほうにくれていたら、ドラが声をかけてくれた。ドラと好みが違うぼくにいろいろ餌の取り方を教えてくれた。ドラは歳を食っているだけあって本当にいろんなことを知っている。のら犬たるもの世間の迷惑になってはいけない、人に噛み付いてはいけない、飼い犬と喧嘩してはいけないなどなど一からドラに教わってきた。おかげでこうして桜咲く春を迎えられた。
ぼくがいつもの散歩コースの公園で見かける変なおじさんの話をするね。いつもリアカーいっぱいに小さな袋をいっぱい運んでいるんだ。あ、あのおじさんが今日もいる。鳥の鳴き声を真似て口笛を吹いている。しばらくすると小鳥たちが集まってきた。いつものことなんだけど子供たちもいつの間にか集まってなんとなくおじさんを遠巻きにして座っている。そのうちおじさんの肩にとまったカナリアとまるで何か話してるようなあんばいになった。興味津々の子供たちに取り囲まれているなぁ。おじさんが口笛を吹けば鳥が集まるんだからいやでも子供たちも集まるわけか。
ずいぶん長いことカナリアと話し込んでるなぁ。あのおじさんがまともな商売をしているとは思えないなぁ。だっていつも小さい袋や大きい袋を山のように積んでリヤカーを引いているばかり。ぼくはこのおじさんのことをふくろうおじさんと呼んでいる。とても変なおじさんなんだけどぼくも話がしてみたいな。
子供たちが散らばっていった。カナリアもどっかへ行っちゃった。よし、あのおじさんに声をかけよう。あー犬の言葉はわかるはずないよなぁ、でもダメで元々で声をかけてみよう、ワワン!…おじさん…あれ耳が悪いのかなぁ、おじさん…やっぱり犬語は通じないや。と、トロはあきらめて、どっかの日陰を探そうっと歩き出したその時。
何だい、トロ。振り向くとおじさんが笑っている。不思議だ、まるで心が通じたみたいに言葉がわかる。驚いた。僕の名前まで知ってる…こいつはほんとに驚いた。面白くなって、、おじさん小鳥集めるのうまいね、小鳥たちとあーやって遊んでたら楽しいでしょうね、、、僕の体はもう全身耳と目だ。
あはは、遊んでいたわけではないさ。カナリアはぼくに町中からの噂を届けてくれるんだよ。
今日だってそうさ。実はね君に会いたかったのさ。君の噂はカナリアからも聞いた。
そうなの?おじさんは神様か何かなの?
あはは、神様の知り合いはいるけど僕は神様じゃない。
トロは最初のドキドキが少しおさまってきたのでこのおじさんに一番聞きたかったことを聞いた。
おじさんいつもそうやってたくさん運んでいるそのリヤカーの袋の中身は一体何なの?
あぁなんだ、そのことか…この袋の中身はね夢なのさ。
えー、寝ているときに見るあの夢のこと?
そうだねあれも夢だね。でもね…このリヤカーいっぱいの袋の中の夢はね…叶えられなかった夢なのさ。楽しい夢やちっちゃな夢や大きな夢やたくさんあるよー。君に会えたら渡したいと思ってていた袋が1つあるんだ。君に引き受けてもらいたいなぁ。
そう言うとおじさんはごそごそ袋を探していたと思ったらちょっと大きめの袋を取り出して、、、あったあったこれこれ。
ぼくの返事も聞かずにおじさんはおもむろに袋の中身を取り出した。なんだか古ぼけた楽器だ。あーそれなんていうだっけなぁ。
バイオリンさぁ。これを君に引き受けてもらいたい。
このおじさん何を言い出すんだろう、なに考えてるんだろう…このバイオリンをどうしろと言うんだろう。こともあろうに三本足のこのぼくに!
からかっているんじゃない事はなんとなくわかる。このおじさん年を取りすぎて自分の言ってることがわからなくなっちゃたんだな、かわいそうに。ぼくはまもなく、本当に気分を悪くして腹も立ってきた。三本足だからといって決してぼくは誰にも引けは取らない。ドラも言ってくれた、トロももう1人前の立派なのら犬だと。
おじさんまたね、トロは、腹が立っていたけど、ぐっとこらえて、おじさんが気を悪くしないように笑かけながらその場を立ち去ろうとしたその時、、、
ぼくだって考えたさ…君にこのバイオリンを託すことが良いかどうか…カナリアから聞いたよ、君の昔のはなし、三本足になったわけ。
君は自分の気持ちに嘘をつけない犬なんだ。だから犬の世界ではあるまじき行いをした。自分の飼い主である主人に噛み付いた。こんな話おじさんも長いこと生きているけどただのいちども聞いた事はないよ。ぼくが保証する、君は世界一勇気のある犬だ。
誰もが思っていてもやれなかったことを君はやったのさ。ドラを助けたかった、心の底からそう思った、だからこそ君は…ドラをかばって自分の身を投げ出したんだ。ぼくはカナリアから話を聞いたときそう思った。そういう君だからこそ…君にしか頼めないと思ったからこそこうして頼んでいるんじゃないか。
ぼくは足を止め、後を振り向かずに背中でおじさんの言葉を聞いていた。ゆっくりと話してくれるおじさんの声にぼくは、ぼくのおかあさんに慰められているような気がしてきた。涙をこぼすまいと、上を向いた。ぼくは涙を振り払うつもりでおじさんのほうに向き直った。
おじさんはぼくの瞳の奥を見つめていたかと思うとニッと笑った。ぼくもつられて口元が緩んだ。
おじさんはそれを待っていたようにバイオリンとぼくの顔を代わり番こに見はじめた。ぼくはおじさんが目をキョロキョロさせているのがおかしくなってふふふと笑った。
おじさんはぼくにバイオリンを抱かせようといろいろ工夫してくれた。ぼくは体を少し横にして尾っぽと前足をうまい具合にからませてお腹に乗せた。変な格好だ。ちょうど人間が赤ちゃんを抱いているような塩梅だ。おじさんはその時を待っていたように…弾いてごらん、、、と言った。ぼくがとまどっているとおじさんは言った。心に思い浮かべるだけでいいのさ…。
何を? おじさんぼくはいったい何を思い浮かべればいいの?
君はさっき君のお母さんのことを思ったろ?そんなふうにして君の気持ちをほどいてみてくれないかな。
おじさんは空を見てから、思い出したように小さく折りたたんだ紙をぼくに見せてくれた。あのねこれはねそのバイオリンの持ち主がねお母さんに宛てて書いた手紙なのさ。バイオリンの胴の中に見えないように付けてあったんだね。読むね。
お母さん、ぼくが兵隊に取られて悲しかったでしょうね。でもぼくが戦争に行かなければ非国民と言われてお母さんまでが罰を受けてしまう。ですからぼくは兵隊になりました。ぼくは戦争なんかまっぴらです。まして人殺しなんかできるものですか。ぼくの心残りはただ1つ。
バイオリンを弾きたかったなぁ。
おじさんはもう一度その小さな紙を折りたたんで胸のポケットにしまった。ぼくはその人に会った事は無いけれど悲しくなった。きっとお母さんにもう一度聞かせたかったんだろうなぁ。会ったことのないその人の声が聞こえたような気がして、ぼくのお母さんのことも思い出した。ぼくはバイオリンを抱きながら目をつぶった。なんだかだんだん体が軽くなってきたような気がする。
(※:非国民とは…国民でないと言うことだ…人を物扱いするときの言葉)
ぼくはぼくの体が自分の重みを忘れる位ふわふわになった時…ぼくはこの持ち主のことを思い出した。え?どうしてだろうこの人に会ったこともないのにぼくは懐かしい気がしてきた。そのうち見たこともないぼくのお父さんやおじいさんやおばあさんの顔が浮かんできて…ぼくも子供の時のように四つ足で軽々とその人たちの間を飛び回っているんだ。人間たちとの交際が始まった本当に遠い昔の事がまるでそこにいるかのようにぼくの目の前で繰り広げられた、、、、
気がつくとさっきから遠くの方からかすかに聞こえていた波のような音がだんだんぼくに近づいてきた。ぼくはその音に集中した。我に返るとバイオリンの弦がぼくの心を映し出すように緩やかに動き出すのが見えた。ぼくは胸がいっぱいになってその音に身をまかせた。どのぐらいの時間がたったのだろう。目を開けると風景は以前と何も変わっていない。おじさんがうなずきながら言った。
素晴らしい演奏だったよ…。
バイオリンを演奏するトロのうわさが町中に広がったのはそれから間もなくの事だった。トロの演奏を聴いたものは誰もが赤子のような心を取り戻すと言うことだ。
ありがとうございます。時間をおいてから、いただいたヒントを反芻して読み直してみます。友人が描いてくれたイラストが頭の中に残っていますのでとりあえずその場面だけでも思い出しながらまずは一枚再現してみたいです。当時もその方の作る絵本の出版を勧めた位、僕はその方のイラストが気に入っていましたので。コメントで思い出したことがあります…ペーパーバックレディー、ホームレスの女性をこう表現していた記事からの連想であったことを、つまりその…袋おじさん→ふくろうおじさん。 人はだれでも1冊の本を書けると言う意味の言葉を聞いたことがあります。いま、ふと、人は日常を暮らしながら、もう1人の自分も生きているのかなあと、、あはは、これはまた「意識」をめぐる別の物語が始まっちゃいそうです、たくさんのインスピレーションをありがとうございます!
わかりやすい語り口、しなやかな文章がいちまるワールドを展開するのにぴったりで、子供も大人も楽しめる童話になっています。ハンメルンの笛吹き男やモーリス・センダックを連想させるような登場人物?がいちまるさんの豊富な読書体験を反映しながら、絵を描く人らしい具体的なしぐさの描写も印象的で、童話というジャンルがいちまる作品のメインメニューにおかれるべきだと思いました。表題になっているふくろうおじさんという、夢の袋をリヤカーで運ぶというキャラクターは魅力的で、カナリヤのあとで出てくるからてっきり鳥のふくろうかと思わせながら、口笛で小鳥を集めたり、人の心を読んだりと不思議な力を発揮する。このあたりの筋の運びが自然なのでいつのまにかふくろうおじさんの姿かたちはどうでもよくなってけむにまかれてしまう。袋と梟が両義的にとけあわされて想像力を掻き立てられるのは、著者の仕掛けの巧みさかもしれません。
一つ気になったのは、(※:非国民とは…国民でないと言うことだ…人を物扱いするときの言葉)という注釈。この言葉を知らない若い人向けの老婆心からかもしれませんが、物語の流れをストップさせて、想像力の広がりを狭い歴史的事実に限定させてしぼませられるような気がします。地の文にして、非国民とは…国民でないと言うことだ…くらいでどうでしょうか。
ぜひいちまるさん自身の挿絵を添えて、童話を完成させてください。絵本にするのも考えられると思います。
ここにも世間の常識に反逆する犬がいましたか☺️
ろれちゃんと同じ感想、そしてアンコール。
このお話で思い出した長谷川町子さんの漫画を添付しておきますね。いちまるさん、絵もお上手だから、次は漫画仕立てでいかが?
ありがとうございます、吐き出せてほっとしています😕
すばらしい!童話作家誕生ですね。考えてみるといちまるさんの存在そのものが「童話」って感じなんですね。ようやく謎が解けました。