< 寒い > (今日もほんと長くなりそうなのでお忙しい方、長い文章が嫌いな方、時間がない方はパスしてください。寒いので無意味に暑苦しい😡僕の文章で少し温まる可能性もあります、誘い文句😉フォーラムの場を汚してすいません😅) 先日、お風呂の帰りいつものように閉店間際のスーパーに立ち寄り値引き品をゲットしようと店の入り口を通り過ぎるとき…路上生活者とおぼしき男の人が店の前に置いてある照明の当たらない暗いベンチに座っていた。寒い、寒かろう、寒ければ…どうしたって寒い、どうする? あれから心の中にすき間風を吹かせたまま、今この文章を音声入力で暖かい布団の中で書いている。ネットで「路上生活者ガイド:東京編」を探すとすぐ出てきた。路上生活者全体にこの小冊子を配ることを目的に作っているものだ。彼に渡そう。ビックイシューから既にその小冊子が3冊届いている。添付されていた、手渡すときの注意書きが参考になります。1人で声掛けしない、2、3名で相手の精神状態を確認しながら慎重に手渡す。もちろん寝ている人を起こしてはいけない、などです。 僕も含め一般の人が彼らに声掛けするときの躊躇はわかります。役所の窓口に行く前にいくつもの関門がある。その第一の僕のためらいは役所の窓口に案内するのに体を清潔に保ってもらうこと。僕はこれができない。家のお風呂はつぶして倉庫がわりに使っているからだ。銭湯に連れて来たって…先方に迷惑。お風呂を潰した理由は、銭湯が近くに二軒もあるので風呂の掃除を考えたら銭湯に行ったほうがよっぽど安上がりだとの判断による。第一関門の入り口のところで僕の決心が鈍ってしまった。ガイドブックには身なりの解決、までは出ていなかった(こんなことなら去年炊き出しの手伝いに行った時先輩たちに聞いておくべきだった)。マニュアルと言うのは細かく詳しくわかりやすく細部まで書いてないと使い道がないものだなぁと思う。 (以下、※〜※まで、マニュアルの必要性と、マニュアルは詳しくなければ役に立たないという、話題です、本題とは全く関係ありません、興味ない方飛ばし読みしてください) ※ マニュアルで思い出したことがあります。3年ほど前に近所の老人介護施設でアルバイトした時、僕が自分用に作ったマニュアルのことです。僕が席をはずしている間に先輩の一人がそれをこっそり盗み見して…後で僕のそばに来て言った。これ、いちまるさんが書いたの?すごい!その先輩は内容の細かさにびっくりしたのでした。 そのマニュアルたるや、とても僕以外には見せられない代物でした。個人名がどんどん出てくるし関係者が見たらドキドキする記述ばかりだ。どの先輩の指示を最優先するか、テーブルを消毒する時ティッシュは何枚位までなら責任者に注意されないか、クレーマーっぽい利用者さんのさばき方、一人ひとりの身体の状態に合わせたサポートの位置と姿勢、食事室への誘導の仕方、薬服用の有無と記録、リフト付浴室の備品の補充、おしぼり配り、お茶配り、配膳、ポットの洗浄、ゴミ捨て、日報作り、などなど早朝から2時間のアルバイトを手際よくこなすためのマニュアル。あってしかるべきマニュアルがない現場。(現在進行中の介護現場に立ったことでお金に変えられない貴重な体験が得られました) 入所者と大して歳も変わらない、はげちゃびんで新人の僕は懇切丁寧なマニュアルがなければ動けない。なのに、アルバイトを実際の現場で右往左往させるために言っているとしか思えないような通達事項。いろいろな仕事の優先順位、その他決まり事を全て口頭で伝えられた。そんな不十分な説明で、てきぱきと作業をこなせなければそれはアルバイト能力不足のせいと言わんばかり。僕が仕方なく作った、決まり事項を反映させたマニュアルをみれば、たかがアルバイトの仕事がとっさの判断力をいくつも要求される、複雑な作業の連続であるのがわかる。必要ななものを作らない、ちゃんと分析しない、ちゃんと評価しない。日本人の悪い癖だ、根拠もなしに見てくれだけで難しい仕事を簡単な仕事と決めつける。丁寧なマニュアルもなしにその仕事がこなせなければ無能力者と言う烙印を押す。馬鹿げてる。2ヶ月でやめました。(耳の聞こえの悪い僕には先方にも迷惑をかけたかもしれません、辞める時にそう伝えました)きちんとしたマニュアルもなしに、何人アルバイトをやめさせるつもりなんだろうって思いました。 さて…以上、何事にも先達の作った詳しいマニュアルがなければ、初心者は動き出せない、という余分な話でした(本題はまだ先です、すいません) ※ ちょうど1年前の今頃だったかな。渋谷へ炊き出しの手伝いに行ったことがある。美しが丘公園にGoogle マップでたどり着き先輩たちに紹介され指示されるままに炊き出しの手伝いをした。確か夕方4時頃から2時間位で作った。下準備で洗い物してたんだけどすっかり手がかじかんでしまって、ホッカイロ3個、身に付けていたけどそれでもまだ寒かったっけ。 出来上がった雑炊を三々五々集まってくる人たちと一緒になって食べた。巨大なお鍋で沸かしたロイヤルミルクティーがおいしかった。寒い。おいしい。やっぱり寒い。路上生活者の一人(身なりが良い)の人から言われた…オタク、(あんなに)洗い物ひとりでやったからだよ(寒かっただろ、疲れたろうよ…)。 あれから…路上生活の人を見るたび…なぜだか目に入らないかのごとく通り過ぎていたぼく。潜在意識で気にはしていたのであろう、やっと一年経って何かやってみようという気になった。「寒い→寒かろう→どうする?」の感情がやっとさびついたセンサーに反応し行動しようと言う気になった。行動に結びつかせたのは寒い、と言う形容詞だ。 (形容詞が人に働きかける力について別のヒントをKBCメンバーの、ろれさんから貰いました。ろれさんのLINEの発言…形容詞をイメージするといろいろなことがたくさん書けるような気がする…と言うような意味のことをおっしゃってたとき、あっ!これだと思いました) (やっと本題に入ります。※路上生活者の人にはご迷惑にならない程度に近々コンタクトを取ってみます) 白状しますと、形容詞なんてもともと軽蔑していました。美しいものを美しいなんて簡単に言うな、うれしいです、悲しいです、なんて小学生みたいに簡単に形容詞を使うな、安易に形容詞に頼らず作文しようと自分自身に言い聞かせていました。安易に形容詞を使う人を、これまた安易に軽蔑しそうになっている自分がいました。 (形容詞マニア…は、この自分の思い込みが正しいかどうかの検証でもあります) ところで、ぼくは、動詞は行動を起こす言葉だと思っています。でも動詞は力のある言葉なのですが使うほうにもそれなりの体力を要求してくる。学ぶ生きる描く観る読む。それに引き換え形容詞は…体力のない人にでも共感を誘い出す力がある、きっと。寒い…は寒い人を思い出させる。気がつかないくらいそっと背中を押してくれる。決心を要求する動詞のようではないが形容詞は共感を誘い出す言葉なのかもしれない。身に寄り添う言葉なのかもしれない。そして使った形容詞が自分自身に語りかけてくる。 寒い…に共感した僕がいて、今もいる。 思い切って、形容詞は感情をサポートしていると考えてみる。認知症になったとしても、その人をサポートする。たとえ認知症になったとしてもその人らしさは感情に残るとか。その時感情の近くに形容詞が「いる」。 …感情は、判断をゆがめる。しかし感情の欠如は、より多く判断をゆがめる。(ケネス・B・クラーク著:ダークゲットー・黒人の叫び:今野敏彦訳マルジュ社146ページ)・・・・臨床心理学者の彼がこういうように感情はやっぱりややこしい。一筋縄ではいかぬ、取扱注意。 感情は意識の構成要素か、はたまた意識は感情の構成要素か?トートロジー(鶏が先か卵が先か)。話を前に進めるために…感情は意識に直結している、としておく、まぁこんなとこだろう。 さらにいい気になって…人類が連綿と続けてきた歴史の記憶がより多く個人個人の感情の分野になんらかの形で残っていると仮定してみる、つまり脳の旧皮質に、、。 調子出てきたぞ…さて、ここで突然、話の展開上、感情を契機として意思・意識につながりやすいのは主として形容詞である、とする。どう伝達しているかは…まあ、こんな風… 形容詞が意識に直結しているわけではない。形容詞は、百科事典で言えば「索引の大見出し」の役割。 あたたかい、と口に出しただけで温かいもの、暖かいもの、を探し出す。危ないと思っただけで体が反応する。悲しいと思っただけで悲しくなる。形容詞は人間の古い記憶を司る旧皮質の大海原にダイレクトに作用する。今大海原と口が滑ってしまいましたが… 旧皮質の中身は人間史始まって以来の記憶のカオス(混沌)です。 (ここから支離滅裂の言いたい放題の始まりです) もちろん単純な二進法のアルゴリズムなんかで読み出せるわけがありません。いわば即興演奏みたいなものです。形容詞から発せられたパルスを感情のカオスの中に響かせて同期する感情のセグメント(断片)を収集する。しかも大海原の海底にまで届く即興演奏でなければならないのです。どうしてかと言うと、「今その瞬間のテーマ」を瞬時に提示しなければ生存が危ういこともあるからです。危ない!と思った瞬間に体が反応していなければ命を落とす場合もある。そのための即興演奏。即興演奏はどのようにして行われるか。 まず、発せられた形容詞、または思い浮かんだ形容詞が大見出しの役割を果たし、感情のカオスに揺さぶりをかける。それがまるで磁石のように「感情のセグメント(断片:断片のひとつひとつはこれといって名前をつけられない感情。新皮質では理解できない感情の断片)」を引き寄せる。集まった感情のセグメント同士で討論会が始まる、結論が出ることもあれば、紛糾することもある。いずれにしても、集まった感情の塊(烏合の衆のような塊、未整理の塊)がそのまま新皮質に送られそこでとりあえず白黒つけることになる。新皮質のやっている事なんて、せいぜい、旧皮質が浮かび上がらせた予件の中の判断なのです。学のない僕が言うのもなんなんですが…最先端の学者がやっている事は実はここの部分です。おそらくここの瑣末な部分の研究に取り掛かっているだけで、ゆうに100年はかかるでしょう。全く呆れ返ってモノが言えません(学がない割には大口叩いてます)。 さて、旧皮質の大海原の表面に浮かび上がらせるきっかけが形容詞から始まったというところまではよろしかったでしょうか?(ファミレスの店員さんの口真似してすいません、次に支離滅裂のピークが来ますので、覚悟を決めていただくため念押しさせていただきました) 人間の歴史の総意が感情と直結すると考えれば、、、コントロールしきっていると思う自分の主体的意思が実はコントロールを受けている客体でもあると言う矛盾を以ってして(その矛盾があるからこそ)傾きを検知しバランスを取ろうとしている生きる意志が自覚できる(口からでまかせ言ってます)と考えてみれば…とてもじゃないが意思、意識は「もの」ではないことがお分かりいただけると思います。例えて言うなら、「エネルギー、エナジー」が近い、というか、質量のないエントロピー?質量を生じる前の空間? それだって「もの」だと、君は言うわけだろ、少し黙っていて欲しい、子供じゃあるまいし。あ、そうだこう言えばいい…意識は…「よくわからないもの」…ある良心的な生物学の科学者は…意識は…「全くわからないもの」と言っている。 あのね ドストエフスキーが100年以上前?に書いた、カラマーゾフの兄弟に出てくる大審問官の設問を思い出してほしい。キリストが奇跡を起こしてみせないからといってキリストを信用しないのは…信用の意味を理解したくないからだ。意識がものだと言い張るんだったら、君にはその証拠を見せてくれと言いたい。この問いそのものを発っしているこっちのほうが恥ずかしくなる。キリストに向かって奇跡を起こしてみろと言っているようなものだからだ。人間の存在そのものが奇跡であるのに奇跡を目にしながら奇跡の証拠探しをし続けている自己矛盾(僕は無神論者です、念のため)。 (僕を動かしているものは多分感情だ。そんなことを言いたいために長話をしてしまいました。すいませんでした。形容詞マニアのタイトルがあながち、的外れなタイトルでなかったことにちょっとほっとしています。形容詞の周辺をほっつき歩く人…形容詞マニア) あ、それと、最初にお断りしておかなければいけませんでしたね。今日のお話はこれから作る小説のセグメント(断片)に使う予定です。ほんと失礼しました。明日からもう少しまともになります)。 このシリーズでは「い形容詞」を取り上げていますが…他の国の言葉でも形容詞は「い」の音が入っているような気がします。感情をむき出しにすれば必然的にこんな音になる。感情は胃(イ)に響く…なんちゃって)
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あ、そうだ…長いコメントどんどん載せてください!ぼくはクレマチスさんがいろいろ工夫して作ってくれたこのホームページ…使い倒すつもりで利用さしてもらってます。びすこさんも、このホームページが全世界に発信されていることをちょっとだけ気にしつつ…ご自分のフォーラムを作ったり…とりあえずはホームページを埋め尽くす勢いのコメントをお願いします、つまり確信的共犯者になっていただけると僕が毎日ホームページをよごしている罪が少し軽くなるような気がするのです、これを…他人の「オーラ」を利用するオイラ、、、虎の威をかるねずみ?と申します、ではよろしくお願いします🥺