< しかつめらしい > 光友クラブ、と言う大井町にあるその会社の保養施設の一室で僕は生まれて初めて、兄が一押しのその会社(兄は、その頃自称いっぱしの相場師「罫線屋 : 株価の値動きを日・月・年別に値動きの幅を方眼紙に克明に記録して、それに基づき株価予想する人」でしたので会社の内容と業績に詳しかった)の面接試験を受けた。人事部長の神子田(みこだ)さんのメガネをかけたしかつめらしい顔をしっかり覚えている。そして僕が学生服で同じくしかつめらしい顔してドキドキしながら面接を受けて…帰り路、「落ちたな」と、とぼとぼ帰っていったあの日は雪がまだ残っていたような気がする。 カラマーゾフの兄弟、が愛読書とありますね。この本わかりましたか? ぼかぁ (ぼくは)よくわからなかったなぁ…。どんなところが(よかったの)… 僕は小説の中に出てくるアリョーシャ(アレクセイ)の一途でひたむきな純粋性に感動しました…と、確か(ここが面接の場面だと言うこともちょっと忘れて)力を込めて答えていました。帰りみち、十八歳の僕は面接試験を後悔してました。あの場面…もう少し大人っぽく適当に答えていればよかったなぁ…力説するなんて子供っぽい(でもあの場面でマジにドストエフスキーについて語るよりはマシ、と18歳の僕はとっさに判断したんだなきっと、、、今ちょっと50年前の気持ちを追体験してみた)。ま、どっちにしても、ませてたなぁと思います。そうそう、ませてたといえば、同級生が大学の門をくぐった途端、急に知的に武装?しちゃって、世の中を慨嘆し改革を叫びだしたとき…既に働きだしてたこっちはいっぱし大人気分で白けてましたからね、今思えばどっちもどっちの世間知らずだっただけの話) その後4年間、初めて面接を受けたこの会社の世話になることになりました。僕にとっては、この会社は、社会労働大学とも言うべき位置づけで、僕の「学園生活」はこうして始まったのでした。終身雇用が当たり前、年功序列給与制度が普通の高度成長時代真っ只中。三千人近くが通う工場は午前8時に始まり終業時間は午後4時。夜は大学の二部に通う人か多く、落ちこぼれはいっぱしの呑平になりました。僕もそのクチでした。春一番が吹く2月20日に退職しました。温室から出て無謀にも外の社会の風に当たりたかったんだと思います。こんな話、昨今の厳しい経済状況にさらされている若い方にはピンとこないと思います。僕だって50年後のまさかのこの社会の状況に全くピンと来ていないのと同じように(50年前、30年後には労働生産性が上がり最低でも週休3日制位にはなっているだろうと思っていました) このブログを書いたおかげで…なんとなくググった「光友クラブ」にネットを通じて半世紀ぶりに対面することになるとは ! (思い出話ご勘弁…あー、この玄関、廊下を通って襖で区切られた部屋の一室で同窓生達と、僕が振り付けたひょっこりひょうたん島を踊り、他の会社の人たちとセブンブリッジをして興じ、店屋物をとり、酒をしたたか飲み、別室のダンスホールでは同僚や先輩たちがダンスをしていたんだっけ。そして…この光友クラブ(僕がいた頃は、かの岩崎家の別宅だったと聞いていた)でやった僕の送別会…同じ高校の大先輩が同席して、僕をその先輩の経営する会社に温情で呼び寄せようとしたその夜、そんな気持ちも知らないで、ぼくは庭近辺にあった、その先輩の新車を蹴飛ばしたんだ…酔っ払って正体なくしたあいつをお前たちはなぜ止めなかった、と先輩たち全員があとで怒られたそうです。張本人はこの僕なのに😔) https://fumiyatag.exblog.jp/15950273/
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学校の図書館で当時の新刊だったその本の入荷を待って借りていました。確か中央公論社の2分冊だったと思います。名の記憶が確かでないのですが…僕が忘れられないのはほんのちょっとだけしか出てこなかったんですけど…ソフィア:ソーニャです。高潔な精神の存在を確信できました、見た目の悪いその少女に。
「カラマーゾフの兄弟」懐かしい。私も高校時代に読んだので、多分いちまるさんと同じ頃。そう、無垢の子供がなぜ苦しまねばならないか、という疑問、不条理への憤り・・・若かったのですね。
岡潔という数学者がいましたでしょう。この人が何かの随筆に、小説・フィクションに登場する数多の女性の中で一番好きなのは、「カラマーゾフの兄弟」のカーチャだって書いてました。