こんなコロナ時代には…「おびただしい」人出が懐かしくなる… とは言ってみたもののやっぱりぼくは子供の頃から賑やかなところが苦手でした。祭りは遠くから太鼓の音を聞くだけで充分。行儀よく列をなして順路に従って鑑賞する展覧会や雑踏はいうに及ばず、ちゃんと着席するコンサートなど、決しておびただしいとは言えない状況でも…僕にとっては「おびただしい」。ちょうど良い人口密度、心地よいと感じる密度は人によって違うと思う。昔、車椅子の友人の付き添いでニ、三度若い女性歌手や男性歌手のペンライトをみんなで振りかざすようなコンサートに行った時…楽しそうにしている友人の横で針の筵に座らされているようでした。また、ずいぶん昔の話ですが…メーデーの日、当時勤めていた会社の組合の代議員やってたもんで代々木公園に駆り出され、それこそおびただしい人でごった返す中、公道をマイク持った人の先導でシュプレヒコールして歩くはめになり…しぶしぶ、居心地悪く唱和していたものでした。公道を占拠したようで気分が良いと言う友人を横目に、こっちは「引かれ者」気分でした。デモが嫌いと言うよりは「おびただしい」人出が嫌だった。 閑話休題。よくよく考えてみれば、人はそれぞれが「おびただしい」情報の塊だ。三人いたら万座の中と言う言葉もある(昔の人の例え話は凄い、寸鉄人を刺すごとし)。三人はすでに僕にとっておびただしいのかもしれない。寂しがり屋なくせに、一人の時間も充分確保したい、という潜在意識が大きいのかな。幸い今はそんな時間が取れるので、こんな悠長なセリフがはける。 でもこの年になってやっと、たまには…「おびただしい」人々の中のひとつぶになって紛れ込んで迷子になってしまうのも悪くないかなと思い始めました。理屈から言えばあの世の人口の混雑ぶりはその累積数からいってもこの世よりも超おびただしいはずなので、今から慣れておいたほうがいいのかも🥴
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群衆って凄いですよね、もの言わぬ群衆も…酔いしれる群衆も…そうですか…ヒットラーのフィルムを今も流している、辛い思いでいるドイツの人たちが多いことを思うと…彼我のメンタリティーの差を見せつけられた思いです。
私も、夥しい人の群れ、というのが大の苦手です。ほら、映画なんかでローマ時代の円形劇場に民衆が詰めかけてグラディエータ―の試合に興奮するシーンがあるでしょ。ああいうの、ただただ恐怖です。それから、ドイツのテレビでは、もういいと思うのにいつまでもヒットラーについての古いフィルムを放映し、すごい群衆を前にチョビ髭の男が演説する様子をこれでもかとばかり見せつける。群衆がその演説に酔いしれて、女性など失神しそうになっている。おお、こわ。60年代のビートルズ公演時の興奮もこれと似ていましたね。