1月1日(月)
泥ネギ、、畑でいた姿のまま、泥のついたまま、空を突き刺すようにとんがったネギの青い先のまま、5、6本束ねて200円ちょっと、イトーヨーカドーの目玉商品?
一昨日食べた海鮮丼の具が多すぎたのでマグロをヅケにしておいたのとネギの青いところでお汁にした。その中に湯を通せばすぐ食べられる蕎麦を入れて、晩酌の仕上げに食べた、、もちろんうまいに決まってる。
1週間ほど前に買って食べた蕪の葉っぱもおいしかった。やはり畑にいたときの姿のまま、青い葉っぱのそのままのふさふさした形。葉っぱの部分をほうれん草を茹でる要領で茹で、ほうれん草と同じように鰹節をふりかけて食べた。ほうれん草には悪いんだけど…ほうれん草よりコシがあってうまいうまい。
まるまる太った大根がめちゃめちゃ安い。畑にあった姿のまま…つまり土から顔を出した葉っぱがついている大根はない。大根足のようにしっかりした大根の葉っぱは輸送するときの邪魔になるだけで、バッサリ切り捨てられる。おいしいところが捨てられる。
この世は半製品に満ちている、、と言ってみる。流通することが最優先なのでどうしてもそうなる。長いままだと買い物かごの場所塞ぎ🧺でもある。
考えたら世の中すべてそうなってる。教育も半製品。食べ物も半製品。出来上がる人間は製品に近い半製品になってしまう。すべて流通のためだ。元はと言えば使いやすくするため、美味しくても邪魔になるものは切り捨てられる。
便利で快適なものと交換したものは、切り捨てられた頭の中身。必要になったからといって簡単に取り戻せるとは到底思えない。
遊んで取り戻すしかない。人間にとって遊ぶ事は切り捨てられたものを取り戻すこと…ホントかなぁ…しっかり遊ぶ一年になるといいなぁ。
2ヶ月前…兄のことでいろいろ動いていた時…ついでに種まきもしておいたことが今年すぐに始まる。
1月15日のかつしか広報に手作り絵本の会メンバー募集が出る。その後には多分、立石図書館友の会メンバー募集も出る。ただで20万部のネットワークを使わせてもらえる、、これを使わないみんなは頭がどうかしちゃってるに違いない。たいして効果のないウェブなどより「生もの」を扱った方が反応は100倍早い。
それぞれ、絵本を作ろう、小さな図書館をつくろう…と呼びかけます、もし誰も集まらなくても…少なくとも僕のきっかけづくりにはなった、遊ぶきっかけ、、遊ぶために金はいらない、、暇さえあればいい、、あはは🤣
(あーお腹すいた、腹が減ってりゃ何食ってもうまい😋今年もたくさん歩いて腹を減らそう)
真冬のネギっておいしいですよね。白い部分がシャキシャキして甘くて、すき焼きにも入れるし、ヌタにしても抜群。子供の頃はこの白いところが厭で、父母がそれを好んで食べているのが不思議でした。子供の舌ではその良さが分からないのも当然。冬の大根もおいしかったなあ。畑がすぐそばにあるので、料理のために抜いてきてすぐ食べられる。
その前に野菜を洗うのですが、その場所はわが家の前の水路でした。当時はそこの水で野菜を洗い、また洗濯物を濯ぐので、作業がしやすいように「くみじ」というのがありました。「汲み路」なのか「汲み地」なのか分かりません。小学生のとき作文にこの場所のことを書いたら、先生から「くみじって何なの」と訊かれ、あれ、これ自分の田舎だけの言葉なのかな、とずっと思っていました。
それがあるとき、偶然に愛媛県松前町でこの言葉が使われていることをネットで知って驚きました。その後、「くみじ」を使った俳句を作った際に確認したら、ちゃんと残っていました。私の句は
・葱洗うくみじや水の清かりき
というもの。
松前町のくみじの説明をここにコピーしますね。
「大間の中央部を流れる隅田川は、泉川とも呼ばれる地下水の自噴する清流です。・・・豊かな流れは豊富な淡水生物を養い、モクズガニやウナギ、ナマズを購入する必要はありませんでした。
しかし、現在では水量、水辺環境の変化に伴って、水生生物の生活状態は激変しました。清流は淡水生物を養うとともに、洗面、遙拝、炊事や洗濯の水源でした。各家庭に面した小川には「くみじ」が設けられていました。共同利用もできるように、石垣を組み、花こう岩の石段が設けられ、「くみじ」と呼んだのです。 子ども達が身近に接する水辺は「くみじ」でした。しかし、町内の所々にあった「くみじ」は次々姿を消しつつあり、一部が大間の泉川・長尾谷川すじに残っているにすぎません。」
私の村では、くみじは石ではなくて木製でした。道路から少し降りて水面よりも高い位置に木のプラットフォームのようなものを設定し、そこに膝をついて洗い物をするのです。
葱からの連想でした。