12月2日(土)
(昨日6時ごろ眠くなって夜中1時過ぎ目が覚めた。そろそろ下に降りてミルクにコーヒーを加えてトーストしたパンにバターを塗り食べた。
その後よくできた絵本とか童話を読む、そのうち夜明け、まだ暗い。
絵本も童話も面白い…みんなの願いがこもっている。
1冊の童話から小説が立ち上ってくる
一生夢見てくらした男。そんな男いるわけない…ところがいるから小説が成り立つ)
※籾二の赴任
1960年代末
籾二は、故郷栃木の〇〇中学の体育教師として赴任する。私立中高一貫校の中学校だ。
高校生の時インターハイで400メートル高校新記録を出した籾二の名はその中学校の卒業生なら誰でも1度は聞いたことがある。数年前の地元の新聞では将来日本の陸上短距離界の記録を塗り替えると騒がれていた安川籾二。
その私立学校の創立者の流れをくむこの高校の経営者のたっての招きに籾二があっさり応じた形だ。
この学校経営者、ミーハー的に籾二のファンだったのだ。
陸上競技が好きと言うよりはただ走り抜くというわかりやすいスポーツは学問にも通じるとの信念の持ち主。
好きなものに没頭する若者を輩出したい、育てたい、それを教育方針にしたい、そういう若者を育てなければならない、使命感を持っていた。
その学校の応接室
安川さん…私の招きに応じて下さいまして本当にありがとうございました。あなたが高校生の時から私はずっと注目していました。
ここ栃木で開かれた国体で高校生ながら400メートル日本記録保持者の〇〇に食らいついていった最後の100メートル、あの走りがみんなの目に焼きついていますよ。僕にとっても衝撃的でした。そのあなたが我が校に体育教師として赴任してくださった、夢のようです。
こういう殺し文句に弱い籾二であった。
〇〇はまるで商売人のように弁舌爽やか、安川籾二は恐縮するばかり。
安川さんは当時の日本記録保持者の〇〇さんを慕って彼のいる大学へ入学した、そして記録も順調に伸ばしていったと、噂で知っています。なのになぜ頂点を目指さなかったのですか…
籾二は困った顔をした、困っていることがわかってくれるといいなと思いながら…
あ、あ、大変失礼しました、個人的な理由をお聞きしたかったのではないのです、この話題は忘れてください。
わたしの気持ちはただひとつ、この学校の若者たちに、自分の本当に好きなものに挑戦する、その気概、その気持ちを育てていっていただきたいのです
それだけです、何も日本記録を目指さなくても好きな道を目指す、日本にはその若者があまりにも少なすぎます、日本の将来を危惧しているのです。
学問でもスポーツでも本当に好きな事にチャレンジできる国が良い国だとわたしは思います。
籾二はまっすぐに〇〇の発言に同意した。
※籾二とタミの新婚生活
籾二の母は戦後まもなくの映画界を騒がせた作品で有名な映画監督の二号さんだった。籾二の父はその映画監督ではなく籾二の母の前夫の子…女手一つで籾二を育てていたが、同じ郷里の知り合いだったその監督に見初められニ号さんにおさまった。
その監督からは小さな家を一見与えられその後、援助は途絶えた。籾二の母は洋裁の仕事をしながら籾二の学費を捻出していたのだった。
陸上選手を極める夢は断念した。いろいろなことがありすぎた。亜紀との、つまずきはその一つに過ぎない。タミを救うことを第一に考えていたが…第一に救うべきは母ではないのか。その迷いにあったき…私立中学の経営者から在学中から誘いを受けていた籾二に選択の余地はなかった。
タミは籾二と結婚し、タミの父親からのがれ、タミと籾二はしばらくは籾二の母の家のニ階の4畳半で新婚生活を始めたが、学校経営者の世話で学校の近くに家を借りることができた。やっと新婚生活らしき体裁が整う。長い道のりだったような気がする籾二とタミ。
それより少し前、タミの父は酒のうえのつまらない諍いに巻き込まれ大怪我をする。その怪我がもとであっけなく他界。
(いくら小説とは言えこんなに都合よく人が死んで行ってもいいものだろうか)
タミの父親の死は、複雑な思いをタミに残しはしたが、やっと、手にしたタミにとって夢に見た籾二との生活、そして妊娠。タミは流産した。籾二は母体が無事だったことを感謝した。
タミは子供の時からの粗食が原因でなかなか健康の維持が難しい体になっていた。医者に診てもらうもののいまいち原因がはっきりしない。籾二はタミが健康を取り戻し、健康な体を楽しんでほしいと願った。タミの健康を一途に願う…
そんな籾二の気持ちがありがたくそれに応えられない自分が情けなく…タミは籾二に、思い余って打ち明ける。
籾二さん、、いいにくいことなのですが…私がこんな体で…
籾二はいつもと様子が違うタミに気がつく
ん?
私のことを…起きている時も、寝ている時も本当に優しくしてもらって、、幸せです、、これ以上ない幸せです、、でも、、ちゃんと答えられない自分が情けないです…に、にいちゃん、、
タミはやっと心に詰まっていたものを吐き出す
…よそで、、女の人を抱いてきてもらってもわたしは構いません…そうしていただきたい、、
籾二は一瞬何を言われているのかわからなかった、、やがて、、
籾二は拳を握り締めた、爪が手のひらに食い込む、拳が震えだす、ハラハラと涙がこぼれた、籾二はタミの頬を張り飛ばした
みそこなうな!
「タミは子供の時からの粗食が原因でなかなか健康の維持が難しい体になっていた」というのが身につまされました。私の場合は粗食というより、食糧難の時代に食が細いのを幸いろくなものを与えられなかったので、体格も悪いし体力もない子になってしまっていました。弟妹の時代には状況はかなり緩和されていたのですが、母がその時代の人の常として、妊娠中に生まれて来る子のために健康に留意する、などということがなかったので、それぞれに(割と致命的な)欠陥をもって生まれました。妹が60代半ばで逝ったのもそのせいです。
不運のサイクルは胎児のときから始まるのだとよく思います。貧しく生まれた人は健康にも恵まれず、教育も十分に受けられず、職業も限られ、犯罪に手を染めやすくなり・・・何年か前のことですが、受刑者の多くは身体的に問題があって病みやすく老いやすく、字もロクに読めず、施設の職員(かつては獄吏と呼んだものだけど)が老いた受刑者の面倒を見なければならないが、人員不足で困っているというニュースを読みました。生まれた時の運を生涯引きずって生きなければならない人たち。
この不運は精神面、つまり知性に関しても言えることで、老後をただぼんやりと過ごすしかない人も多い。戦後生まれはその点まだ恵まれていますが、昭和10年前後の生まれ(現在87,8歳)の人などは、新聞ラジオなど媒体に接する機会も少なかったし、今に至るまで頭の動きが緩慢なように見えます(これは田舎では特に顕著です、差別になるからと、誰も言いませんけれど)。
でも戦後のドサクサの中で生まれて直接間接に「貧しさ」を知っていることは、悪くないと思っています。それだけに、今の時代は「生きづらい」などと若者が言うのを聞くと、猛列に腹が立つのですが。