11月30日(木)
1970年半ば
「なかよし日本」という言葉をブームにした影の立役者である業界誌の記者と亜紀は新橋のガード下の居酒屋で新橋界隈のサラリーマンと一緒。この会談は亜紀にとってとても心騒ぐイベントであった。ここは霞ヶ関の官僚たちもたまに息抜きに来ているし、中小の個人経営者がいる、業界誌の新聞記者もいるというわけである意味、日本の縮図。亜紀は自身のはじめての出版「なかよし日本」のネーミングを考えた、自称一匹狼を気取っている業界誌の記者なぜか「お近づき」になりたい気もあった。
業界誌の記者の逆取材。「なかよし日本」の出版元の担当者に。この本のネーミングはどなたが考えたタイトルですかと尋ねたところフリーランスの記者の名前を聞き、なぜこのタイトルを選んだのか、その理由を本人に確かめるため会いたくなったのだった。
会談時間は1時間、亜紀は結婚したての物部真一を既に自分のマネージャーのようにして使い始めていた。信一のほうは信一で亜紀のコントローラーを自認していた。スケジュール管理はほとんど信一が担当していた。
亜紀は、国立大学出でのまぁ誰でもが認める国立大学出での由緒正し学者一家の御曹司のネットワークを信頼していた。とにかく歴史のあるネットワーク。日本中に張り巡らされている人的ネットワーク。
亜紀は自分から仕掛けた接待なので六本木界隈の名の知れたいつも使っている日本料理店での会談を信一に相談をすると一蹴された。社会観察のために指定された場所はサラリーマン、自営業者、霞ヶ関の役人たち、雑多な人間の世界にも類を見ない小さなカオス、ホテルの外国人の宿泊客さえ集まってくる、有楽町に近いガード下の居酒屋。
亜紀は指定の場所に一足先に行こうと思って10分ほど前に着いたが騒然とする雰囲気に圧倒された。ちょっと崩れた感じがする業界誌の新聞記者を予想していたが、タバコの煙の奥のちょうど2人掛けのテーブルで手招きする亜紀と同世代に見える、背広にノーネクタイではあるが座り姿に風格がある男に気がついた。
通りいっぺんのそそくさとした挨拶を済ませ居酒屋の固い椅子に腰を下ろす亜紀。キャリアウーマン風の目立たないスーツ、目立たない化粧…もちろん物部信一の指示通りの風采の亜紀。
鳥井敏雄に差し出された名刺をしばらくじっと見る亜紀。金融関係の新聞記者をなさっているんですね?ずいぶん難しいお仕事のようですが…失礼なようですがこの新聞はなぜ必要なのですか?
鳥井はそう聞いてくるだろうと思って簡単に説明した。まあ、コールローン市場の動きとか、金融人事とかあれこれです…僕もまだよくわからないのですと、さっさと切り上げたい鳥井は亜紀を煙に巻いた。
素人に説明することそのものが面倒臭い。
そもそも物部亜紀から連絡をもらった時、、ホントかよ…たなぼただと思った事は確か。とにかく変わり者の物部信一のパートナーでちょっと前のベストセラーの著者と会えばまたなにがしかの商売のネタもつかめるだろうと、新聞記者特有の勘を働かせて、かねてからの友人と呑む約束をすっぽかし時間を作った鳥井だった。
いい女だな。俺には鼻もひっかけないような女が向こうから指名してきたわけだからそれだけで儲け物だ。自分からこっちにお願いしておいて会談時間も1時間に設定してきやがって…何様だと思ってやがる。
あ、鳥井さん、こちらから偉そうに会談時間まで指定して本当にご機嫌を悪くされていると思います。私は物部信一マネージャーの指示で動いているのです、、
鳥井はこれを聞いただけで今日会った価値があると思った。
まさか、ご冗談でしょう?
こう言っては失礼ですがあの高名な物部先生は巷ではもっぱら、その、なんといいますか…尻に敷かれているという噂ですよ、あ、失礼しました、ごめんなさい、私じゃない街のみんなの噂です…あはは、口が滑りました。
すぐに打ち解ける鳥井のいつもの手だ。
亜紀は世間ずれしていて物怖じしない鳥井に、好感触を持った。
今日お会いさせていただいたのは他でもないあの雑誌のタイトルはなぜ思いついたのですか?それがどうしても気になって、、あのタイトルであの本が売れたと皆さんは口には出さずともそう思っていらっしゃるに違いない…
今日の会談はそれのへんの事情などを、タイトルの考案者でいらっしゃる鳥井さんに直接お聞きしたかったからです。
出版社の〇〇は僕の友人でして彼からの本のゲラ刷りを見せられてこの本にタイトルをつけてくれと言われ、あの本を拝見して、翌日彼に返事したのがあのタイトルだったのです。
あのタイトルを見て読者は2つの判断をすると思います。仲良し日本…え?誰と誰が仲良しだって?
なかよし派閥、仲良し政党、仲良しネットワーク、仲良し友達に興味を持たない日本人はいません。
もう一つは?
もう一つはあのタイトルをそのまま鵜呑みにする連中です。平和天国日本にどっぷり浸かっている方々です、、
それを口にしたときの鳥井の皮肉っぽい微妙な口元の歪みに亜紀は気がついていた。
日本人の行動基準はまず誰と誰が仲良しかを見極める事です。義務教育を通じて日本人なら誰でもそれを思い知らされる。僕もその1人です。まぁ家畜教育ですね。僕はそれでいいと思っています。特に自虐的だとも思いません。先生方の組織もそれに加担しているのですから。
亜紀はこの男に会って良かったと思った。この男に抱かれてもいいかどうか…いつものリトマス試験紙にかけた。
中性、、求めていたものだ。
あっという間に時間がきた。
鳥井さん、失礼ですがご結婚は?
全く失礼ですね……あはは。
2度目ですが、どちらにも3人の子供がいます。金が欲しいですね子供たちのために。
亜紀は、別れしなに、用意していた包みをいつの間にか並んだ酒のお銚子の横に、若い女がバレンタインチョコレートを差し出す調子でポンと置き、早くも酔いが回ってきた鳥井は、すばやく亜紀に視線を合わせ、当然のようにしてゆっくりとその包みを内ポケットに収めた。居酒屋のすぐ隣のテーブルで大きな笑い声が店中に響いた。その頃、学生の間で流行っていた一気飲みを女子社員に無理強いして、それをはやしたてる男どもの喝采だった。
今日はどうも本当にありがとうございました、と、レジで勘定を済ませてから、いつもより深々と店の外で頭を下げ別れた、別れ方も金の渡し方も全てマネージャーの指図通りであった。
鳥井の心には、すっかり忘れていたすがすがしさだけが残った。
※ 050以上
少しずつしか変わっていないんだけれど長い時間をかけてみると社会全体は全く変わっている。
一人一人がやっている事は大した事ではないようだけれど長い時間をかけてみると一人一人も結構大したことをやっている。
昨日の午後四つ木御殿の1階の押し入れの中棚に切り込みを入れた。もうそれだけで押し入れが人が入れるカウンターに早変わり。
使った道具をそのカウンターの上に乗せ、片付ける。
部屋を暖かくし、部屋の中央にある大きなテーブルの上に広げた図書館からもらってきた童話や絵本を見はじめた。
僕は小さい頃そういう子供ではなかったので子供の時間が取れるのがとても楽しい。
あ、こんなことを書こうと思っていたのではない。
少しずつ変わっていく事は社会全体が変わっていくこと、これが今度の小説の隠しテーマ。もちろん亜紀は結構若い時分からそれに気がついている。そこに気がついてもらっては困る連中もいる。
組織に対抗できるのは組織しかない。小説の場合には組織に見えない組織、亜紀の小さな組織が大きな組織に対抗していく。アナーキズムじゃなくて…アキイズム、どうやって展開していくんだろう?
職人のやる事はただ1つ今日の分を組み立てる。
今日の分…壁一面の本棚の側板になる柱をえっちらおっちら担いで四つ木御殿まで1本運ぶ。運び終わったらそこで子供の時間…絵本と童話を読む。
((昨日の夕方、来年早々四つ木御殿を使いたい人が電話を下さった。こちらからお願いしたい位なのでもちろん二つ返事でオッケー、うれしいなぁ)
小説の今日の掲載分、デジャヴュとまではいわないけれど、懐かしい思い出が散り嵌められていました。
有楽町のガード下の居酒屋、あの辺はよく通ったので、一度入りたいと思っていたのですが、風月堂や和光とちがって女一人では無理。それで、例のミカド見学と同様に知り合いに頼んだら快く引き受けてくれ、雰囲気だけは掴めました(おまけに支払いまでさせて申し訳なかった)。
あのガード下には、当時多かったアメリカ人観光客を相手にまがい物の浮世絵だの浴衣だの扇子なんかを売る土産物店があって、たまにそこへアメリカ人夫婦を連れて行かねばならないときなどすっかり閉口していました。
金融関係の新聞記者は私も知っています。私より少し年下で、今でも年賀状をやり取りする程度の仲です。実はさる団体が帝国ホテルに海外視察参加予定者たちを集めて準備会を催したのですが、そのX紙の記者だけが30分以上遅刻してきました。申し訳ないと繰り返しながら弁解して言うには、その日、当時の日本で最大手のサラ金が倒産してその取材に駆けつけていたとのこと。バブルの前奏曲が日本中で奏でられている時期でした。彼、視察旅行から帰った直後にニューヨーク駐在になったため、プラザ合意の記事でよく名前を目にしました。
あれから茫々40年。腕一本で世の中を渡る職人さんと違って千差万別の人と付き合わねばならない仕事をしていたので、思い出しても嫌悪感(自分への、です)が湧き、ムシズが走ることが多々あります。
全て終わって、安堵の晩年です。仕事を辞めて一番嬉しかったのは、スーツを着る必要がなくなったことでした。現役中も出来る限りスーツは避けていたのですがどうしても着ざるを得ないこともあり、今でも当時のスーツが洋服ダンスの隅に掛かっていて、それらを見るたび忌々しくなります。セーターやワンピースなら普段に下ろすこともできるけど、スーツを着てご飯を炊くなんてできないでしょう。