11月27日(月)
1960年代半ば(046続き)
文化祭当日は芸術系大学の特徴を余すところなく発揮して、派手な立て看板1つとっても他校の学園祭には見られない趣向の数々、まさにお祭り。
快晴の空を見ながら、社会を騒がせている学園紛争にかぶれた連中が少ないだけでも、亜紀はこの大学を選んで良かったと思った。
他大学の学生や父兄が例年と変わらぬ物見遊山気分でキャンパス内を歩きまわってくれているだけでいつもとは違う新鮮さがある。
そんな楽しげな風景がちょっとだけ亜紀の計画に味方してくれそうな気もする。
籾二との初顔合わせのロールプレイングは予行演習済み。気を衒った派手なデコレーションが多い中、亜紀のオーソドックスな展示ブースは素通りされることが多い。それすらも亜紀にとっては好都合。真面目な顔して好色そうな教授が亜紀に話かけてきそうな時もさりげなく席をはずしていた。遊んでいる場合ではない。
エミが事前に伝えてきたお昼少し前の来校どの情報通り、ターゲットが軽薄を絵に描いたような学生とともにこちらに向かってきた。
亜紀は目をそらすこともなく接近してくるターゲットだけを見つめた。軟派と硬派の凸凹コンビの構図。軟派の方が口を開いた。亜紀が手を開いて彼の口を制する仕草をして…エミちゃんが茶店/サテンの模擬店で待ってますよ、とウィンクした。彼もさすがに気をきかせ…じゃぁ安川…と言い残して去っていった。
安川さんとおっしゃるんですね、森山です。いつもそちらのグラウンドでお一人で練習なさっているのがなんだか気になっちゃって…つい遠くから見ていました、ごめんなさい。
亜紀は予行演習通り一気にそこまで言ってから、短距離の陸上選手らしく筋肉で張った籾二の腰まわりに目をやった。
あっ、いえ、僕もこちらの文化祭には前から興味があったんですが…と次を続けようとして口ごもる籾二。
すかさず亜紀は籾二の得意なフィールドに話題を移す、筋書き通り。
あのね…とあまり気安くならないように気をつけながら、亜紀は籾二の注意を引きつけながら、、
(籾二は展示してある屏風のうちの1枚、爆発的にダッシュする瞬間をとらえた人体が自分のような気がしていた、、これも亜紀の目論見通り、よしよしうまく進んでいる…)
そこから目を離せない籾二に静かに言葉をかける亜紀。
聞いて、安川さん、人間が…二足歩行を始めたのは…赤ちゃんがハイハイを卒業して、、聞いてる?
籾二は展示物から目を離し亜紀を見る。
そこに描いた絵のとおり、赤ちゃんが、ある時その勢いに任せて立ち上がった時をたまたま大人が見ていて、その赤ちゃんの真似をして大人が立ってみた…というのが始まりと私は考えてみました。
亜紀は籾二がちゃんと聞いているか時々確認する教師のような気持ちになっていた。
さてここからが本題です、、
水中から立ち上がったと考える人が多いと思いますが、、と、そこまで言って亜紀は籾二をもう一度しっかり見た。
父親の祥太郎に似た少し切れ長の目、都会ズレしていない、どちらかと言えば茫洋とした印象。
遠くからしか見ていないが走っているときの印象と違う。意志が強そうな顎の線とちょっとちぐはぐで面白い。
見つめ合う2人。
それって…どういう…?
籾二も、亜紀のいたずらっ子のようなアーモンドシェイプの目を探る。
つまり私の仮説はこの説明書きにある通り…
といって亜紀は籾二をブースの大きな掲示板に注目させた。
亜紀は声の調子を変えて、掲示板に書かれていることを読んで聞かせる。
その昔四つん這いになって生活していた人間の長い歴史の中で…何度も何度も幼児たちが立ち上がるそぶりを見せても成人した人間たちは一向に立ち上がろうとしなかった。
なぜならそれが彼らの生活の姿勢だったからだ。そしてある時ついに大人が幼児たちを真似し始めた。
固まってしまった腰をトレーニングによって気が遠くなるほどの時間をかけてついに立ち上がったのだ…
とまあ、ドラマチックに聞こえるが、ある意味、漫画みたいな運びの亜紀のこじつけにもかかわらず、このはぐらかしの突飛な説に籾二はまんまとひっかかった。暗示に弱い籾二。
籾二は亜紀の説明を聞いているうちに…スターティングブロックから弾き飛ばされるようにダッシュする様と赤ん坊が勢いに任せて立ち上がるその場面が二重写しになって見えてきた。
亜紀は上目遣いで籾二の目を見た。手ごたえを感じた。
偽善をストイックな仮面で隠したようなこの男…その仮面をひっぺがしてやりたい、と何故か一瞬そんな思いに囚われた。
落ち着いているようでも亜紀は自分が仕組んだストーリーがこんなにうまく運ぶとは思わず、いつもよりさらに踏み込んで大胆になっていることに気がついていない。
学園祭をめぐる青年たちの時代への幻滅と欲望のごった煮のような熱気をかいくぐり、結局筋書き通り、亜紀は夕方、籾二と落ち合うことに成功した。
指定場所の美大の裏門に籾二は所在なさそうに突っ立っていた。
亜紀は予定の行動として、
籾二は二足歩行への日頃の興味から、、
うかうかと不用意に亜紀の誘いに乗った。亜紀の父親の書棚に二足歩行に関する書類資料があるという亜紀の言葉を鵜呑みにして…。
亜紀は人目を避けながら、まばらにしか通らないタクシーを捕まえ、籾二とともに国立の亜紀の家へ向かった。
20分ほどで小さな門が見えた。少し手前でタクシーを降り、遠慮がちにしている籾二を亜紀は先立って自宅へ誘った。
おそらくは明治時代の洋館の様式を所々取り入れた昭和の初めの造りであろう建物はそれなりの風格を備えていた。東に面した瀟洒な鉄製の門扉、よく手入れされた庭木の小路のアプローチ、その奥に入り口がある。
枠に細かい植物の彫刻が施された木製の玄関ドアを入ると小さな広間があり、玄関を挟んで丸く突き出したように左に和室、右に応接間が夕暮れの光を斜めから取り入れていた。左のふた部屋続きの厨房は小さいながらも使い勝手の良さそうな什器類が小綺麗に配置されている。
広間の階段から踊り場を介してくの字に曲がると階段を取り囲むようにぐるりの狭い廊下に面して左に書斎、右に洋間が二つと倉庫代わりの予備室がある。
籾二はさっさと先だって案内しまくる亜紀の後ろ姿を追いながら、異空間に紛れ込んでしまった犬の気分だった。
書斎の書棚の前でやっと亜紀は一息入れた。籾二を坐り心地の良い回転椅子に座らせてから…ちょっと待っててね、と言い残し、階下の厨房へ降りていった。
ややあって、お盆に紅茶のカップを乗せて現れた。勧められるままに籾二はぎこちなく紅茶をすすった。
え?この紅茶何か入ってる?
あ、安川さんが落ち着くかなと思って少しブランデーをたらしたわ。
俺、酒に弱いんだよなぁ…と、気安い学生言葉がやっと籾二の口から漏れる、、内心、、落ち着け、と自分に言い聞かせていた。
あらそうなのそんなごつい身体しているくせに…
と亜紀が籾二の口調に合わせ、軽く応じる。
籾二はそう言いながらも気取ったような紅茶の香りとブランデーのアルコールが素早く血中をめぐり体がやっと居場所を見つけたように落ち着いてくるのが分かった。
それは、トレーニングの蓄積疲労が思わぬ展開にゆるむ錯覚であっただけなのに、、。
亜紀は紅茶を手にしたまま書斎から入るまぶしい西日を少しカーテンで避けて、遠くに目をやった。
籾二も亜紀の視線の先を追う。
籾二に夕日は見えぬが、籾二は夏の終わりの夕日に照らされた窓の外の木々の呼吸を感じた。
亜紀の横顔もいやでも目に入る。浅黒く、勝ち気で彫りが深く、バタ臭い(外国人風の)この女、一体何者?初めて亜紀を意識した瞬間だったかもしれない。亜紀のペースにするすると、はまった自分がなんだかおかしいと思いつつも、きれいな女だと思った。
でもタミとは別の人種だ、と籾二は胸の奥に大切にしまいこんである幼なじみの顔を思い浮かべた。
俺って何をしてるんだろう…二足歩行の資料を見せてもらったらすぐに帰ろう。
やがて日が沈み、籾二に問われるままに二足歩行に関する文献などを父の書斎から当てずっぽうに引き出して籾二にあてがいながら、、
彼にとっては場違いな環境に馴染んできたと見るや、籾二にしばらく時間をくれるように伝え、下の厨房で軽い夕食を用意し始めた。
もうそろそろ必要失礼するよ…と言う籾二の声が聞こえたが無視した。
亜紀は二足歩行とランニングとの関連に触発されたらしい籾二の「ご説」に熱心に耳を傾けるふりをして…酒に弱いという籾二にさりげなく口当たりの良い白ワインをグラスつぎ、軽食のサンドイッチ類を勧めた。
籾二が酔いに任せてうとうとし始めたのを確かめて、亜紀は夏の終わりの夜寒に備え来客用の洋間の薪ストーブに薪をくべた。
すべては亜紀のシナリオ通り。両親はアメリカ。父祥太郎には以前から、留守中には亜紀の親しい、祥太郎も顔見知りの友人たちを招いても良いとの承諾を取ってある。亜紀の身の回りの世話をしている〇〇さんは休暇をとって留守中。母の順子には、友人を招いてもいいけど遊びはほどほどにねと釘を刺されているが、今の亜紀には聞こえない。
籾二はうかつにも生まれて初めて目が回るほどワインに酔った。フランスの高価な酒が、ストイックなまでに体を追い込む日ごろのトレーニングでたまっていた疲れを吐き出させ意識を麻痺させた。
亜紀は椅子から転げ落ちそうになった籾二を起こした。すぐに体勢を崩しそうになる籾二に軽く張り手を食らわせ、フラフラでも歩けることを確認して、ほうほうの体で籾二の身体を支え、離れの洋室のベッドに我が身もろともなだれ込んだ。亜紀の骨格が軋んでいた。
籾二の服を脱がせ、寝間着代わりのバスローブを巻き付けようと試みたが無駄だった。全身むき出しになった脱力した男の体に亜紀ははっと我に帰った。男の全裸を見るなどを幼い頃風呂場で見た父親以来だ。自分が招いた光景に唖然とすると同時に、全身が持っていかれそうな高潮が押し寄せてきた。
ギリシャ彫刻のように鍛え抜かれた男の筋肉に負けない位のしなやかな獣のような亜紀の弾けそうなのある肢体が充血してくるのが自分でもわかる。
このとき、籾二はすでに別世界にいた、、
籾二は見通せないほどの深い緑の森に紛れ込んでいた。時折、得体の知れぬ両生類のような生き物がなめらかに肌を這うような感覚に囚われたが構わず森の空き地を探そうと焦っていた。焦りはもがきとなり、もがくほどに森は深まっていくような焦燥感が胸を圧迫してくる。
森の奥で聞き覚えのある誰かの声がかすかに聞こえる。あ、タミ…必死の思いで声を出す…タミ!…タミ、、喉が絡まって声が出ないまま、夢のその奥へ記憶が飛んだ。
籾二の体をまさぐるように調査する亜紀。(前段は、創作ノート005参照) 一通りのチェックが終わった亜紀は、、
自身の身体に起きている異変にも気がついていた。うずうずする下半身の熱気が湿り気を帯びて知らず知らずに動悸が高まっている。
ど、どうしたらいいの、沸き起こる初めての感情の奔流に、一瞬、アキのバカ!何を考えているの、と母、順子の叱責する声が聞こえた。それでも亜紀は、、
まどろみの中にいる籾二の口から…
「タ、、ミ、、オレガ、、マモル、、」とのかすかな声を聞き逃さなかった。亜紀は全身に電流が走った。タミ、の意味するものが何か直感した。
渡さない!わたしがタミ、タミに成り代わる、、籾二さん、私がタミ、、亜紀は全存在をかけてわが胸に響かせた、、「モミジ、ワタシガ、、タミ、、」
亜紀は籾二を襲った。
コノオトコハワタシノモノダレニモワタサナイ。
女が男を襲う。巧妙に仕掛けられた確信的レイプ?
童貞の籾二を処女の亜紀が襲った。アダムとイブ、イブがアダムを誘い込む罠、仕掛けたのはイブ。
この一瞬がまさか亜紀の全人生を支配することになるとは、当の亜紀さえ、この時知る由もなし。
あー、面白かった。さあ、これからどうなるのでしょう。純愛に弱い私は、野菊の如き(?)タミさんとの恋愛を成就させてあげたいんだけど。亜紀みたいな女はそもそも同性には人気がない、芸能界の女たちはそれを熟知しているから、中身は亜紀でも外はタミのように振舞う、でも亜紀の本性が徐々に表れて、見ている方もそれに抗することができなくなった時点で、亜紀そのものに戻る。というのがよくあるパターンだと思うけど。
一方、欧米ではタミのタイプは最初から無視されがちなので、亜紀のカテゴリーの女は余計な演技なしで真っすぐ自分の道を進めて、効率もいいですよね。
私の同級生に亜紀みたいに美人で自信満々の人がいて、彼女は友人の恋人を横取りするのが趣味だった。そのうち、若い講師をうまく自分の戦略に載せて結婚し、教授夫人となり、同時に自分の才能を生かして商売を始め、まあまあうまく行っていました。途中で大病もしたみたいだけど。それで今は?風の噂では「卒婚」ですって。亜紀が70代になった時、やっぱり「卒婚」って言い出したら、ちょっと哀しいかも。