11月17日(金)
日本の中の朝鮮文化(相模・武蔵・上野・房総ほか):金達寿著:講談社2001年6月第1刷発行
小説の中で李朝のツボについて触れる部分があったのでこの本を図書館から取り寄せて読みました。
狛犬のコマの音/おんが高麗に関係しているんだろうなぁ位の軽い気持ちで読み始めましたが、、数世紀頃の日本にはすでに韓国朝鮮からたくさんの人たちがその文化を携えて渡ってきたということがこの巻(関東地方)に出てくる数多く地名の由来が朝鮮韓国のものだということがわかってびっくりです。だいぶ昔に読んだ本の中で日本人のDNAの約70%以上は韓国朝鮮系と聞いたことを思い出しました。
身近な人のいざこざほど質/たちが悪い、近くて遠い国?のいざこざはテレビを見ない僕にもたまに聞こえてきます。お互いにいいとこ取りすれば良いのになぁと思います。
小説を書いているとちょっと調べたいことがあり…本を取り寄せることが多くなりました…それだけでも小説を書き始めてよかったなぁと思います。
(さてこれから雨の中、兄の見舞いを兼ねた用事を済ませてきます。雨は嫌だな…とでも言いたいところですが、、(おまえは)「張り子(紙で作ったおもちゃなど)じゃないんだから(水に濡れるとやぶけるわけじゃなし)行っておやり、、」と母の声が聞こえそうです…あはは🤣)
地理的な状況から朝鮮半島が日本に与えた影響は大きいと思うし、それはいろんな意味で興味深いのですが、韓国人の日本への恨みをしょっちゅう聞かされていると、本気で文化上の繋がりを探ろうとする気持ちが萎えてしまいます。前政権はこの点で失敗したのではないでしょうか。自国内の問題から国民の目を逸らすために外に敵を作る、あるいはその悪を強調する、というのは、もう一昔前のやり方だと思うけど。
私の知り合いの一人が関東から中国地方に転勤になった時、山口や岡山に韓国人的な風貌の女性が多いので驚いたと言っていました。(母に言わせると、私の容姿は韓国人とインドネシア人のミックスだって。)
また、もう一人の知り合いはソウル大に3年ほど留学していましたが、その間に韓国人からしょっちゅう、日本文化はその起原のほとんどが韓国からで、韓国のおかげで日本文化があるのだと聞かされてウンザリしたと言っていました。確かに中国や一部西ジアの文化は朝鮮経由で伝わっているけれど、「朝鮮半島ってのは、たかがトンネルじゃねえか」なんて言ってた。
朝鮮人といえば、我が家もお付き合いが多少ありました。戦後に多くの田畑が接収されて小作にタダみたいな値段で譲渡されたのですが、朝鮮人一家に貸していた土地はそのままになっていて、盆暮れにはそこのお父さんが年貢(供物と呼ばれていた)を納めに来るのです。今思うと、日本国籍ではないので買うことができなかったのですね。お父さんは痩せて背が高く、なかなかカッコいい人で、息子さんが3人いました。その長男が工業高校の試験に入学したとき嬉しそうに報告してきて、母は「まあ、それはよかったわね、先が楽しみね」などと一緒に喜んでいました(良くも悪くも、心にもないことを言える女ではなかったので、本気でした。差別主義者の母のもう一つの面です)。
その後、あれは60年代初めでしたが、家族のほとんどが北朝鮮に帰ることになったといって、そのお父さんが挨拶に来ました。北朝鮮は労働者の天国、理想的な国家というキャンペーン、プロパガンダを日本のメディアが総勢で拡散していた時期です。それからは、北朝鮮の悲惨な状況を耳にするたび、「あの人たち、どうしているかねえ」とわが家で話題になっていました。
彼らが日本を去って30年余りのち、父の死の直後に、一人だけ北朝鮮に帰らなかった三男さんがひょっこり訪ねて来て、母は寂しかったので歓迎していました。以後たまに訪ねてくれて私も会い、「母は一人暮らしなのでそうやって様子を見に来ていただけると助かります」とお礼を言ったことがあります。北朝鮮に戻ったお兄さんたちの近況を尋ねると、うなだれて「苦労しとります」と辛そうでした。
ところが、それを知った母方の親戚たちが「数十年ぶりに、しかも夫の死後に、やってくるのは何か魂胆があるに違いない」と言って家に入れないように母に忠告していました。私がいくら弁護しても「世間知らず」の一言で片づけられ、悔しい思いをしたものです。
その50代の男性はそのうち肝臓を患ったとかで足が遠のきましたが、今でも当時を思い出すと母方の親戚に猛烈な怒りがこみ上げます。(今はほとんど付き合いません。)
その前に、あの一家が朝鮮に帰る動機となった新聞・ラジオの報道に対し、私が当事者なら告訴したいと思うほどの恨みを覚えます。当時の記者・ジャーナリストたちはどんな心境なのか、良心が咎めることはないのか、聞いてみたい。