11月13日(月)
昨日夕方近くの小さな居酒屋で友人と軽くいっぱい飲んで四方山話をして…お腹もくちくなっていたのでそのまま家に戻ってバタンキューと寝ました。
駅の繁華街からちょっとだけ外れた小さな店でしたが…端っこに座っていたので店の様子が手に取るようにわかりました。
若いふたり連れが多いのです。ははんこの店はそういう使われ方か…と勝手な解釈で…こちらはこちらの四方山話。
小説の中でも居酒屋での会話は必須だなぁと思いました。勤め人をやっていた時も…新橋界隈の飲み屋さんのあの印象この印象が強いです。英国のパブには行ったことがありませんが…それに相当するだろう日本の欠かせない点景だなぁと思いました。
亜紀が日本の世情に通ずるためには、こんな居酒屋での若手との話し合いのとっかかりを掴むためのシーンを考えてみます。亜紀に接近してくる若い男、、めんどくさいけど…それなりのワンカットいれます、、我ながらよく言うわ🤪
(日本の社交場…あっちこっちの趣味の教室、習い事、お稽古事、スキルアップのための受験準備教室、認知症サポーター養成講座、居酒屋、料亭、ホテルのラウンジ、地区センター、図書館、ダンスに踊り、ジム通い、知らない同士が乗り合わせるバス旅行、、、隙間を埋める小さな社交場まだまだいっぱいあるんだろうと思います。要介護者宅に出入りするヘルパーさんとの交わりだって、他人が人の家に入り込めばそこは社交場と言えなくもない。
日本の隙間を埋めている庶民の暮らしの交わりの小さな工夫は大きな財産かもしれない。世界の財産になり得るかどうかはわからない。
社交、なんていうと、えらく大げさに聞こえて自分には無縁のように思ってしまう。実際には人は生きている限り社会の誰かと交わっているんですが。またコミュニケーション、なんて言われても、なんでカタカナ言葉が出て来るんや、とちょっと構えてしまいがち。
いや、実は私は社交もコミュニケーションもどちらかと言えば苦手なんです。お稽古に通ったこともないし、カルチャー教室にも行ったことなし(だって、そんな暇があったら稼がなくちゃいけなかったから)。たまに少人数の友人とお茶したり食事したり、という程度。ところがそういう私の周りには、なぜかえらく社交好き・世話好きな人が多く、こちらでもそういう人に誘われて食事会に参加することが増えました。それはいいんですけど、泊まりがけで、とか言われるとやっぱりちょっと怯んでしまいます。あまり長居はしない方がいいような気がする。飽きちゃうのかなあ。知らずに気を遣っていて、ストレスになるのかも。このあたり、いちまるさんなら分かっていただけますよね。
家に一人でいて(旦那が普段ほとんどいないこともありがたい)、一人で時間を潰す、これは得意です。いちまるさんも、ね?
だけど、介護が必要になったりすると、やっぱり誰かにそばにいてほしいんだろうか。人との会話に飢えるようになるんだろうか。たわいもない噂話をしたくなるのかしら。
10年後(生きていたとして)の自分が見える水晶玉がほしいなあ。