11月12日(日)
1980年代前半
この頃、今から40年以上前、犬猫それぞれの保健所の年間殺処分300万匹と噂されていました。もうこれだけで「信じられない」…そう言われていたことすら知らない人もいるでしょうね。
生息圏を道路で分断されたタヌキが今までの生息圏内の道路で交通事故であえなく最期を遂げたその数、年間約10万頭と言われていた、、今聞けばまさかと思う。
その頃、僕はワンちゃんの霊園をやっている多摩にある寺をフィールドワークして…それをやろうと画策し……ひょんなことから金もないのに土地を提供する協力者が現れ、ぼくを含む友人3人で急遽「システム」らしきものをつくりました。ついでにワンちゃんの墓石も売る、保険も作る段取りまでして、墓石の試作まで完成させました。
お金に困った3人組(2人は所帯持ち)がお金を稼ぐシステムです。これに邁進すればそこそこいけたと思いますが…日銭が稼げないので…でペンキ屋になった。所帯持ち2人はすでに子供もできていた、、遊んでいる場合ではない…さっさと金を稼げ…刷毛1本で稼げるペンキ屋しかないでしょう、、あはは🤣(この話あっさりかつてどこかで触れたのでこれでおしまいです)。
さて、この小説の本筋、メインストリームに戻ります。
2050年代
未来のこの頃、ネズミからクジラまで哺乳類の生息地図上の総数は大きくは減っていない。人間の増加が総数の減少をかろうじて止めているからだ。
(人がなくなったら…土に還る、西洋はそういうところが多いですよね。東洋でも韓国は「土まんじゅう」みたいにして葬っていた。僕などは憧れてしまいます。次善策として… ゼロ葬希望、骨も残さず消滅、樹木葬。
2050年代には…他の哺乳動物と同じ様に人類も「化学的に再利用」するようになっていた…というふうには、たとえお遊びの小説といえども、書くわけにはいかない。
忌まわしい、思い出したくもない、上書きして、なかったことにできない事実の再現という不吉な予感を生ぜしめるからだ。でもなぁ個人的には、僕らはもっとその点を哲学しないとダメだと思います。きっと平気で今度は違うどこかの国が再現すると僕は思います(地下鉄サリン事件とどう違うのか僕は分かりません)。人間ですから誤る、、哲学しようぜ)
哺乳類の生存、寿命の延長について、特に人間の生存の仕方、について、宗教論争だけでなく、科学的にも結論は出ていない。
それどころか、明らかになってきた事実と仮説、の人間の死の再定義。まぁ哲学論争、誰もが哲学せざるをえない、哲学の時代の幕開けだ。
発信元は、絶対的唯物論者にして世界的な権威でもある科学者の〇〇(ノーベル賞拒否、世俗的なものに興味なし)
あまりに専門的すぎるのでこの小説でその理論的な展開は端折りますが、〇〇の定義によると…人間は死ねない(〇〇についていけない方は読み飛ばしてください)
化学的に分析していけば人間は跡形もなく分解処分「再利用」できて余りなし。
ところが科学的にエネルギーの変換→転化を記録していくとどうしても「余り」が出てしまう…この言い方は…まぁ素人にわかりやすく言うと、ということです。
ぶっちゃけた話…魂魄この世にとどまりて、と、四谷怪談のお岩さんがいまわの際に残したセリフの「魂魄」に「余り」は含まれる…つまり「魂魄の成分」なのかもしれない…と〇〇の発言はこじつければそう言えないこともない。これだけ聞けばまるでオカルトだ。
(宇宙の微粒子になりたかった、、宮崎駿じゃなくて星の王子様じゃなくて…風の叉三郎…イーハトーヴ、、宮沢賢治!(やっと名前が出た、ぼくが認知症になったら皆さんよろしく、ふ〜)。
あっ、、
つまり宮沢賢治が望んだ宇宙への回帰、宇宙の塵の成分である可能性もあるわけだ…「余り」
困ったのは宗教界。ダーウィンの再来。種の起源に言及が許されるのは造物主のみ、と真っ向から、まっさきに反対。
宿敵とも言うべき〇〇の発言は亜紀をも、復活させるに十分な理由となった。
「意識」は感情が支え、感情がどのように芽生えるか…どこで発生し、どこにプールされるかまではわかりかけてきた(ほんとにぃ???たった30年後に?)
〇〇の言う「余り」は、もしかしたら意識の胚芽ではないのか…そう考えるのは亜紀ばかりではなかった。
一方、相変わらずこんな論争を繰り返している世の中にため息をついていたのは翔。
21世紀の半ばにしていまだに人間界はこんな論争を繰り返している。これは欲望なのだ…と、そろそろ土に還りたい翔は思った。
(ところで…話は変わって…時代をさかのぼって、えーと… 1960年代半ば↓
籾二の嫁さんになるタミのキャラクタライズ…野菊の墓の民子のイメージを持ってこようと思ったのですが…不純な僕はちょっと想像力が及びません。そこで今僕の手元に図書館から借りてきた本があります…岡部伊都子の本。
著者、本人も認めている自身の虚弱体質…を強めて性格作りをしていこうと思いつきました。
微弱電流を検知する計器の針の動きのように感じ易い女、、だからこそ、籾二はきっと…この女は俺が守ってやらなければならない、、そう思った。
まずは僕自身が感情移入ができるようにしたいです。
誰から守る…タミの父、アーティスト…多分、奥さんに逃げられた?死別した?陶芸家になると思います、、益子焼?そうすると舞台も変更しなければならない…肌にこだわる芸術家かぁ、、めんどくさいなぁ、、とも言っていられません、、やっとまだ物語のボリュームの10%くらいしかできていない、土台作りの状態なのかなぁ、ほんとに着地できるのかしら?)
(野菊の墓の民子はあえなくなくなってしまいますが…この小説の病弱なタミは、、真面目一本槍の体育教師の籾二に対して、どこまでも優しい…どのくらい優しいかというと…健康優良児を絵に描いたような籾二にこたえられない、自分自身が悲しくて、、女を世話するのです!❗️嗚呼、人間、、精神と肉体の分離はすでに始まっている、一緒でなければならないのか?男と女の論理の違いではない人間の論理?どうする、籾二?)
一つ忘れてました。岡部伊都子さんのこと。私の若い頃にこの人は家庭婦人の間で殊に人気があったと記憶しています。いわゆる週刊誌ではなく婦人公論とか家庭画報とか暮しの手帖とかに登場していました。そして関西の中年男の憧れだったんですって。一人暮らしなのですが、その日々の暮らしをとても大事にして、一人分でもちゃんと料理する、家の中もきれいに、花も飾り、着る物にも気を配って。私もいつかはそういう暮らしをしたいなと思っていました。和服の日常はちょっとダメだな、と分かっていましたけど。
ところがこの岡部さん、関西では「いっちゃん」の呼称で親しまれていて、それが普段はスラックスなんか履いて、結構活発でサバサバした女性だったんですって。着物姿しか見たくない、という男性ファンもいたみたいですが。
動物の弔い・墓をビジネスに、というのはとてもいいアイデアだったと思います。先見の明があったというべきでしょう。日銭を稼げない?誰かを説得して投資してもらえばよかったのに。
人間が死ねない、という話は、「さまよえるオランダ人」を思い出させますね。呪いによって船長は死ぬことを許されず幽霊船で永久に彷徨わなければならない。乙女の純愛だけが彼を救うことができる。船長は最後にはその純愛を得て、彼女と二人死の国へと旅立つのですが、この物語を読んだときは大きな衝撃を受けました。そうか、死というのは人間に与えられた大きな恵みなのか。
そういえば若い頃、悩みが尽きずお先真っ暗という思いだったとき、「でも百年経てば、今苦しい人も得意の絶頂にある人も、みんないなくなるんだから」と妙な慰めかたをしたことがありましたっけ。
野菊の墓の民子、懐かしい。