10月29日(日)
祥太郎、ニューヨークで靴磨きの少年を見いだす
(祥太郎一家はニューヨーク郊外に家を借り、順子、亜紀、まかない婦と住んでいる。亜紀は小学生。祥太郎は、この頃までにアメリカ人相手の美術骨董品販売(主に古陶器/浮世絵専門)で成功、上得意の顧客の招きでアメリカに進出している。マンハッタンの裏通りに、画廊を構え、成金たちの顧客も多い。順子は画廊が忙しいときには車を運転し、店まで手伝いに来ることもある)
祥太郎は毎朝事務所に出る前にマンハッタンの道路の片隅で数人が並んで靴磨きをしている少年たちに順番に靴を磨かせていた。
少年たちも心得ていて今日はぼくの番と心待ちにしている。何故かというと祥太郎がチップをはずんでくれるからだ。
他の少年たちに比べ靴磨きにちょっと工夫をする少年が気になった。君はなぜ靴磨きのフィニッシュに十字を切るのかな?
おじさんに今日いいことがありますようにと祈りました。祥太郎はその言葉を聞くといつもの2倍のチップを弾んだ。
1週間経ってまたその少年の前に革靴を差し出し、靴磨き台の上に乗せた、フィニッシュの儀式が違っていた、靴に向かって両手を合わせたのだ…なぜ僕を拝んだのかな?だっておじさんは東洋人でしょう、戦争に負けた日本人じゃない、日本人がそんな立派な格好しているわけがない、、とすると…中国人!でしょ?東洋人は手を合わせるじゃない…祥太郎はいつものチップの3倍払った。
冬も間近の秋の気持ち好く晴れ上がったニューヨークの空を見上げながら祥太郎は、また同じ少年の前に立ちそっとささやいた…僕のメッセンジャーにならないかい?
もちろんいいけど給料の他にチップはどのぐらいくれるんだい?
祥太郎は事務所に連れて行き、事務所に付属しているシャワーを浴びさせ、その少年をまずは理髪店にいかせ髪を整えさせその体に合うそれなりの服装を整えさせるために出入り先の洋服の仕立て屋で寸法を取らせ、手足の長いその少年にぴったり合うサイズの背広を仕立ててあげた。成長期真っ只中の少年は背広を着込むといっぱしの青年にも見えた。
少年の喜びようは、祥太郎の喜びであった。
その後問わず語りに聞いたところによると彼はアリゾナ州から継母のいじめの手から逃れるためにヒッチハイクでニューヨークにたどり着いたと言う。途方もない少年だった。祥太郎は生活力のたくましさに畏敬の念さえ覚えたほど。
少年にとってニューヨークは外国。腹を減らしては、飲食店からの盗みを重ね、ヘマをして捕まっては、警察のご厄介にもなったり、少年院送りにもなりかけたりしても、その都度とっさの機転で逃げ回り、その後浮浪者の子供たちの仲間に何とか入り込み、地元の元締めに場所代を払い、うまいこと靴磨きの仕事にありついたと胸を張った。ニューヨーク一/いちの靴磨きなってみせると決心して仕事に精を出していたところでボスにであったという訳さ。
温室育ちの祥太郎は舌を巻いた。彼はサムシングを持っている。
ニューヨークの小さいギャラリーの中に彼をガードマン兼、店番として置き、たまに取引先への小荷物などを店番に来た順子と入れ替わりメッセージとともに得意先に荷物などを運んでもらうことにした。
彼がある時、、ボス…ギャラリーに飾ってある絵ぐらい僕でもかけますよ、と自信たっぷりで祥太郎に持ちかけてきた。祥太郎ははぐらかさずに彼の目をまっすぐ見て聞いた、一体何を書くの?
「ボス、時代、に決まってるじゃありませんか!」
「君、絵を描いたことあるの?」祥太郎はそれを口にしながら愚問だと思った。
すぐに話題と顔つきを変え、
どんな絵を描くつもり?
ボス、どんな絵がいいですか、
ボスに合わせるかぼくに合わせるか選んでください。
「今の時代を描いてくれ」
画材は…と祥太郎がニューヨークの○番街にあるギャラリーを兼ねた知り合いの文房具店を教える素振りを察した彼は言った。
あはは、ボス、ニューヨークのことなら猫が通る路地の1本1本まで知っています…つい最近までニューヨーク中を逃げ回っていたんですぜ、、あっ!逃げ回っていましたものですから、、乱暴な口ききは自分自身封印していた彼は祥太郎に満面の笑みをたたえながらウィンクした。
翌朝
できましたボス!
「ニューヨークは今始まったばかりです、朝日です!」
彼はキャンバスの上に真っ赤な円を描いてきた。クリムゾンレッドの油絵の具が山を成してとぐろのような渦を巻いていた、穏やかではない真っ赤な赤は凝縮された血液の色に見えた。ニューヨークに活力を入れるが如くに、ネジを巻くようにも見えるうず。
真っ赤な渦に斜めに突き刺さるようなセルリアンブルーの投げ込み。クリムゾンレッドに突き刺さったセルリアンブルーの切っ先から鮮血が飛び散ったような錯覚に陥った。祥太郎は食い入るようにその絵を見ているうちに画面に吸い込まれた。
絵から目を離し彼を見ると、こちらの顔をまんじりともせず見つめる目と目が合った
彼の顔のあちこちににチェックを入れたような赤がこびりついている、絵の具の飛び散りを拭いきれなかったのだろう
視線を絵に戻し祥太郎がよく見ると、どのようにしてその渦を描いたか、全く手がかりがなかった。渦の中に深いところから湧き上がってくるもう一つの渦を感じさせるなんとも不思議な絵だ。
パレットに絵の具を絞り出し画面構成をする…そんなまどろっこしいことをしていられない感情の疾走。
祥太郎は
「パレットは使ったの?」と間が抜けた質問をしてしまった。
「パレット?なんですかそれ?」
「……あっ、あ、何でもない、いいんだ…」
そもそも油絵の具が乾いていないので取り扱い注意…つまり商品として不完全。しかも、この絵は額装さえ拒否している。
それでも祥太郎は作品に使われた人物画用のキャンバスに、着色していない生成りの額装を施した。
祥太郎は絵の周りに囲いをつけ床に寝かせてギャラリーに展示した。まるで囲いの中の生き物が逃げ出さないようにでもするように。
常連客にいきさつを話すと500ドルで売れた。まあ、この絵に使った大量の高価な油絵の具代プラス手間賃といったところ。手数料差し引き、彼が有頂天になるのをストップする意味で100ドルを彼に渡した。彼は自信満々でその金受け取り10ドルを祥太郎に返してよこした。まるでチップを渡すようにだ。
そんなことを1ト月の間に3度繰り返しているうちに気がつけばいつしか彼の絵の話題がささやかれるようになって、意外と高額な価格から、かなり高額との噂に変わっても噂を聞きつけた客が喜んで買っていった。
祥太郎は1枚売れるたびにその前の値段の1.5倍の値段をつけていたのだ。
8枚目が恰幅の良い見るからに成金の紳士が買って行った時、祥太郎は、受け取った小切手の金額を確認した。自分がつけた値段とは言え、名のある絵画並みの値段だ。
祥太郎はギャラリー全体がグラリと揺れたような気がした。
ニューヨークはパフォーマーを要求していた。ニュースにも飢えていた。靴磨きの少年の異彩が新聞種になるのに時間はかからなかった。
油絵の具をふんだんに使い勢いのある単色の渦巻きに途方もない高額がついた。限りない上昇志向の象徴として時代に受け入れられたとしか言いようがない、ニューヨークは一歩間違えば気違いに近いような人間も受け入れる場所で、気違いを生み出す場所だと祥太郎は震えた。
(事実、アーティストをめぐる狂奏曲のような騒動はほんの氷山の一角で、ニューヨークは時代を動かす目には見えない巨大なモーターが作り出す巨大な渦巻きそのものだった)
タイトルのないこの絵に常連客がつけた名前は… reincarnation 輪廻転生。
彼は有頂天になり新聞種になりご多分にもれずドラッグ常習者となり瞬く間に消えていった。彼の得た一生使い切れないほどの大金も取り巻きの悪どもによって雲散霧消した。
自分自身の描いた渦に巻き込まれていったとしか祥太郎には思えなかった。
祥太郎のさほど広くないギャラリーにおよそギャラリーに似つかわしくない、ゆっくり鑑賞できないほどの人が連日にわたり集まり、その熱気にあおられ、展示してある彼の作品以外の作品も次々に売れていく。
いまだ冷めやらぬ降ってわいたブームの結果は数字となって、帳簿に記載された。
〇〇の20%前後のコミッションと、なかなか買い手がつかなかったその他の絵画の売り上げはそれまでの祥太郎の年商額の3倍!をわずかに超えていた。
増えていく年商の一方で、今で言うバーンアウト、沈んでいく虚無感に祥太郎は生まれて初めて「感覚の疲労」を感じた。精神的な疲労はピークに達していた。〇〇に追いつこうと無理して必死で走ってきたツケが回ってきた。
彼に最後まで追いつけなかった疲労感。そしてそれを失った挫折感。
〇〇のパフォーマンスはスペキュレーター達にまたとない投機のチャンスをばらまきながらその後、跡形もなく消えていったが祥太郎のパフォーマンスは残った。美術絵画のマーケットを作るプレイヤーとしての名声だった。金に換算できぬ価値、またしてもプライスレス。
人間うまくいくときはこんなものです。祥太郎にも少し小説の中で休暇をあげたいと思う。休ませてあげられなかった〇〇に合掌。
※スタートしてまだ間もないですが…書き始めてわかった事は…嘘八百にもほどがある、ということでした…
ウーマンズリブについても、人種差別問題にしても、今からあの頃のことを振り返って、あの頃不勉強で、全く知らなかったことなど確認したいことも増えて参りました。
物語のアップは時々飛び飛びになりますが、少数の、それだけに僕にとっては本当に励みになる貴重な読者の皆さん、どうぞよろしくお願いいたします。
画家になった(というより、絵を描くようになった、というべきでしょうが)その少年がドラッグに溺れて消えて行った話は、早い成功のため身上を潰した芸術家・芸能人の一生を思い起こさせます。かつて日本でも、酒と女に溺れて病で倒れた作家などは多かったようですが、戦後寿命が延びてパンクや無頼漢の歌手なども比較的長生きするようになったものの、欧米でのポップ歌手の人生は一般に平均より短い。上を目指して必死のうちはいいが、そのうちトップに立つと、それまでの疲労でしょうか、目的を達成した安堵からでしょうか、あるいはさらに目指すものがない虚無感からでしょうか、ドラッグに手を出してしまう。ドラッグは、一つには新たなインスピレーションを得るためとも言われますが。
このところ、ちょっと考えているのですが、職業ごとの寿命を調べると面白いのではないでしょうか。(職業による痴呆症罹患率の差はよく話題になりますが、平均寿命について調べたデータは、在るのかないのか、とにかく発表されない。)
私の乏しい見聞で判断しているところでは、世界的に見て最も長寿なのは経済学者です。この分野はユダヤ人が非常に多いのだけれど、ユダヤ人以外でも大抵の人が長生きしている。経済学をdismal science(陰鬱な学問)と呼んだのは19世紀の思想家トーマス・カーライルでしたが、陰気な分野にせっせと勤しむ学者たちが長生きして、明るく楽しいはずの音楽や演劇に関わる人の寿命が短め、というのはどういうことでしょうね。