10月28日(土)
国立のサナトリウム
尾形は国立サナトリウムに入ってまもなくの1ヵ月間は胸に去来する様々な思いに悩まされたが、数カ月後には返って落ち着いて、封じていた画業にいそしむ幸せを覚えた。
その頃、早くも近くで同じ病で自宅療養中の祥太郎は病院に診療に訪れるたび尾形の病室に出入りするようになっていた。病院の窓辺で、あるいはベッドの上ででも画帳を片手に気ままにスケッチする尾形は目立った。祥太郎がそんな尾形に接近していったのは自然な成り行き。
尾形は気が向くと看護婦の誰かが動き回る姿を捉えてクロッキーを試みるのだった。頭に残った印象を鉛筆でさらさらと描き上げることもある。色白で爽やかな印象の「絵描き」尾形が病の重さに反比例するように話題の少ないサナトリウム内でその評判はひそひそ話から毎日の四方山話にもたびたび取り沙汰されるまでに時間は必要なかった、言葉は風に乗る。
看護婦には誰かが横顔を描かれたとか、後ろ姿のスケッチの丸いお尻は誰だとか、勤務中はそれなりに役目を果たしていたものの…ちょっとした休憩時間に尾形の話題が出ない日はなかった。
尾形の容姿の好さに女同士の軽口が弾む。似顔絵を頼んでみようとか、たわいない話から…今夜あの人のベッドに潜り込んじゃおかしら、、などと軽口をたたくのものまで出る始末。
その若い肢体を弾ませる軽やかな笑い声は…鉛の弾丸となってかすかにしかし確実に尾形の病室にいる死と背中合わせにいる各々の臓腑を射抜いた。
尾形が祥太郎と初めて会った時から既に丸二年が経っていた
尾形のいる病室の窓からは武蔵野の面影が残る林が遠くのほうに見える。
尾形のいるその病室は症状の重い三人がいる、本来は六人部屋。
尾形は東向きの窓の近くのベッドに寝かされている。窓からはこんもりした林が見える。なだらかな起伏を見せる林はおそらく人工のものであろう。
林のあるあたりは水に浮かぶ小島のように膨らみ、緩やかなアンジュレイション/うねりを経て、周りがわずかに下がっていく工夫で木々が根元までいかにも自然に見える。年季の入った職人たちの時間の経過を見据えた計算が年を経てあたりの風景に自然に溶け込んでいる。
東の窓際に寝たままでその林の一部が見える。実はこのベッドは看護婦の間では誰でも承知している末期の患者が配置されるところなのだ。回復が遅いどころか、病状の悪化が早まっている体の異変に最初に気づいたのは尾形自身であった。
風景を描いても人物を描いても見るものに静かな落ち着きを与える尾形の水彩画のように、尾形は自分自身の変化についても冷静であった。
秋の澄んだ空気の中で、天高く薄衣をなびかせたような筋雲を見ていると今が戦争中だとはとても信じられない尾形だった。
日本本土がアメリカの爆撃機により最初の攻撃のニュースを聞いたとき尾形は直感した。
日本は負ける。工学部に籍を置いていた彼は国力の差、生産力の差を身をもって知っていた。
次にどんな時代が来ようと今よりはマシになるだろう。未だかつて日本の歴史始まって以来、敗戦国の経験のない日本と同じく負けを知らない若い国アメリカの戦争。
尾形は最近、あまり日をおかずに訪問してくれる祥太郎が、大きな心の支えとなっていた。
尾形は日本の敗戦を確認せずに窓から見える林に西日が差す夕方静かに息を引き取った。
なるほど、トーマス・マンの魔の山を読んでおられただけあって、サナトリウムの描写が生きています。私は前に廃院となったサナトリウムについてのブログを書いたとき、ほんの少し結核患者について調べただけですが、なんだか懐かしい(・・・と言っては語弊がありますけど)。
文学者には病弱な人が多くて、健康で逞しく食欲旺盛な人間には文学などに手を染める資格はない、とも思われていた時期があったそうです。戦前には栄養も足りないし生活条件も厳しかったし、平均寿命は50歳に満たなかったと言われているから、結核になった人だけが弱者だったわけでもありませんが、たとえば高浜虚子の「ホトトギス」で瞬く間に頭角を現した川端茅舎や松本たかしは、今読むと病魔から引き換えに特別な才能を贈られたようにも思えます。
川端茅舎は絵を諦め、能役者の家に生まれた松本たかしは能を続けることができず。(この人の句に「春愁や稽古鼓を仮枕」というのがあります。稽古鼓というのは普通の鼓よりも小ぶりです。これ、枕にできるのかなあ。)
戦争の話、私たちの世代は経験していないけれど、生まれた時代にはまだ敗戦の匂いが濃く漂っていましたっけ。田舎では特に。
病と戦、舞台は整ったわけですね。