10月24日(火)
(今日の文章も時代があっちいったりこっちいったりしています、読まされる方は混乱必至、、拾い読みしていただくだけで結構です)
祥太郎と順子の意外なつながりの発端、※馬事件
祥太郎がまだ少年の頃、後に祥太郎の妻になる順子は落ちぶれ華族のまだ少女でクリスチャン家庭の一人娘。
その頃、一方の日の出の勢いの今林鉱業(株)の常務の幼い息子、祥太郎。
その少年、祥太郎がある事件をきっかけとして当時、祥太郎よりも3歳ぐらい年下の順子の白馬の王子様になったエピソード。
荷台に繋がれた馬はちょっと小休止しては糞をたれていた。馬が馬丁に曳かれて再び動き出したとき、幼い子供は道の傍で立ち止まって知り合いと話に夢中になる母親の手を離れて、あれよと思うままに、その馬の前に立ちはだかったのだ。その刹那、何かがその女の子をかすめ取って目の前を通り過ぎた。順子にはその一部始終がまるでスローモーションを見るようにはっきりと目に焼き付いた。
学校帰りの少年が、再び歩き出そうと足を踏み出したその馬に踏まれて命を落としかねない状況から幼児を救出したのだ。あまつさえその少年は子供が怪我をしていないことを見届けると、母親が礼を言う暇も見せずさっさと帰宅の道を急ぐのだった。
クリスチャンの家庭に育った順子はその少年のとっさの機転を見たとき、イエス・キリストはこの世にいるんだと思った。一瞬のその出会いが全てであった。世の中は信ずるに足る、、幼い順子が言葉でそのように理解したわけではない、子供心に「そのように思えた」ということです。その出会いに感謝し、少年の姿をして目の前にその姿をあらわにしたイエス・キリストに出会ってしまった順子。
後の成り行きを見ればこの小さな事件が彼女の一生を決めることになるとは…神のみぞ知る。
奇跡をこの目で目撃したと順子は思った。私はこの思いで生きていける。
一途にして誰も犯すことができない彼女が打ち立てた金字塔におさまったのは、少年のなりをして現出したイエス・キリストであった(くどいようですが、子供がこんなふうに理解できるわけもなく…後で考えれば「そう思えた」(ここポイントです、なぜ言葉で理解できないのにそう思えたのか…)ということです)
その少年を2度目に見たとき、後をつけ、国立の洋館に入っていったのを見届けただけで順子は幸せであった。このエピソード以上。
と長い前フリをした後で今日の話。
※生まれて初めての恋
馬事件(上記)から数年が経ち順子はミッション系短期大学…世田谷にある、花嫁修行を兼ねた、まぁ、いわゆるお嬢様学校に通う。他の女子学生とは違い、遊びとはおおよそ無縁、しゃかりきに英語を勉強(私はあの人たちとは違う、花嫁修行に来ているわけではない)英文学科をなんとか卒業。と言ってすぐには仕事もないし、身に付けたキャリアがなければ当然仕事もない。
仕方がなく新橋にあるビルの一室を借りて貿易会社を運営している会社に就職。社長とアルバイト社員2人とタイピストだけの会社。最初は雑用係りとしての仕事しかなかったが、タイピストが病欠の時、見よう見まねのタイピストに早変わり、アルバイト社員からもいろいろ教わり1年後には、使い走りからお茶くみまで全て1人でこなして、その小さな貿易会社になくてはならない人間になっていた。
数年は瞬く間に過ぎ、いつしか社長の代わりに輸出入業務の全てにわたりこなすまでに、、小説は展開が早い。
そればかりではなく、アメリカからの取引先の客人の相手はもっぱら英語が話せる順子、浮世絵に出てきそうなきれながの目をした大和撫子が外人ウケしないわけがない、中には社長そっちのけで結婚の申し込みまでしかねない相手も現れる始末。加えて、取引銀行の輸出入担当の職員達のウケが良いのも社長よりもむしろ順子。そりゃそうでしょう花嫁修行とは程遠い腰掛け感覚ゼロで女友達の誘いも全て断っている彼女にとって当然の成り行きであった。
30歳を目前にしたある日、社長の友人でもある〇〇から社長に順子のお見合い話を持ち込まれた。順子としては仕事もやっと面白くなってきた時だし…まわりの男にも幻滅していたので職業婦人として独り立ちするつもりでいた。そんなときの見合い話。
社長…順ちゃん、見合いしたことないんだろう?1回ぐらい経験してみたら?
なぜか順子はその時ためらう気持ちが全然しなかった、いつもなら追い払うようにそんな申し出は断ってきたのにその時に限って社長の申し出の気楽さに四方山話の続きのように降ってわいた見合い話に乗ってしまっていたのだった。
ほどなくして。社長が立会人、近くのレストランで見合い。
祥太郎が現れる(その時までに祥太郎は〇〇の指導よろしきを得て美術品古物商に変身)順子の心臓はバックンバックン。初対面じゃないような気がした(それもそのはず、順子にとって一生を左右する※馬事件の主人公が現れたのだから)。
紹介されて祥太郎の素性を知った時の気持ち、白馬の王子様が再び大人になって目の前に現れた!順子は失神寸前だった。かろうじて正気は保った。一瞬にして子供の昔に帰っていく自分に戸惑いながら、落ち着こうと思うほどにますます上気していった。
(30歳近くにもなって、子供の頃の気持ちをキープしているこんな女性がそばにいたらあなた、どうします、、あはは😙
と、笑ってからはっと気がつく、幼い子供が順子のケースとは別にマイナスの感情を持ってしまったときの底、僕の姉の底を垣間見た気がしました。
意識の持続は変成もする、、と考えたときの人間の人為的操作…この小説のテーマの1つだと思います、そこに触れてしまっても良いものかどうか、この小説にいずれ出てくる心理学者と共に悩みたいと思います。
1枚の絵。1枚の写真が人生に多大な影響与える事はよくある話だ、その一方で、人間は1本のマッチ棒にすぎないと言ったのは芥川龍之介、全くその通りだと思います、取り扱い注意のマッチ棒、僕がこの小説のテーマに選んだ「意識」一体どこへ行くんだろう?)
おお、エキサイティングな展開になってきましたね。個人的に感情移入できる部分も大いにあります。幼いときにマイナスの感情を持ち、それを今に至るまで保っているお姉様のこと、分かるなあ。子供の頃の気持ちというのは、人によっては一生を左右すると思いますよ。意識下の領域も考慮すれば、ほとんどの人の生に影響を与えているのではないでしょうか、ドイツ語でAusgang(アウスガング・出口)という言葉、これは出発点/起点という意味もあって、子供時代は人間のAusgangともいえる。
だから子供から将来の大人が育つ、「子供は成人の親」。これは私のアフォリズムではなく、英国詩人ワーズワースがその詩の中で言っていることで(Child is Father of the man)、よく引用される台詞です。