10月19日(木)
(昨日予告した場面は明日にまわします、物語の時系列は無視しています)
亜紀の娘が実の父と、初めて会う場面(認知症の父は娘とはもちろん気がついていない)
翔(カケル/亜紀の一人娘、訳あって森山祥太郎/順子夫婦の養子になっている、つまり本来親子であるべき亜紀との関係は歳の離れた姉妹)は、出会った瞬間につながりを感じた。こんな直感が持てるとは考えてもいなかった。自分の母(亜紀)の代わりに自分を育ててくれた森山祥太郎の後添い、順子から、又聞きで聞かされていた父が今、ここにいる。
翔は父を抱きしめた。認知症の安川籾二はびっくりして翔の胸を突いた。翔は構わず再び抱きついた。籾二はされるがままに1本の棒に固まった。
実の父親を知らず、母に抱かれた記憶も定かでない幼い時に母を失った亜紀の分まで翔は父親の体温を感じとっていた。
(まぁこんな感じで、シーンの断片を今のところは…どんどん置いていこう。こんなもの読まされたって、見る人は面白くもなんともないだろう。
僕のほうは、スケッチで言うと「当たり」をつけているだけですが、こんな調子で100回…つまり100日も繰り返せば、「地」の文(というらしい)もそのうち落ち着いてくるだろうし、少しは集中できる日も増えてくると期待しています。
まぁ読まされる方の迷惑は、わかりますが、それを気にしているよりは最終的に少なくとも読み物になっていた…事実を一緒に確かめてもらいたい希望はあります、、
と、大口叩いておけば途中で投げ出す退路を断つことにもなるのかなと思います。
小説の可能性を確かめる副産物として、小説なんて誰でも書ける、と言い張りたい。
その証拠のひとつに、、そのうちAIが作った小説も評判になる…あはは)
人間関係の複雑さは家族に始まる。人間への根本的な不信も家族の中で発生する。というのは正しくないかな。赤の他人への不信にはまだ救いがあるが、身内・親族への不信となると、出口なしという状況になる。認知症もまた救いがない・・・今の世間には、そんなことはないとかかんとか言葉を飾って、認知症になっても人間であることに変わりはないとか(当たり前だ)、慰めたり励ましたりする人も多いが、そういう心にもない、そして役にも立たない、台詞は止めてほしい。とりあえず、本人にも周囲にも負担が少ない現実的な方策を考えてほしい。いや、私も考なければならないのですが。
昨日話した棄老の件、調べるとこれ、英語ではsenicideまたはgeronticideっていうんですね。cideは殺人だから(ジェノサイドみたいに)、シニア殺し。そういえば医学にgerontology(老齢学)というのがあるけど、どんなことをどんな風に研究するのでしょう。学者たちは多分20代から60代。これが子供を対象にした学問なら研究者も経験があるけれど、80代・90代の人間をまだ経験したことのない人が老人研究というのもちょっと大変そう。
AIってば、私最近このAIと喧嘩したんですよ。頼みもしないのに回答を寄せて来る。挑戦的な質問をすると、道徳家か説教師みたいなことを言う。それも「私は・・・」とかいうので、私って誰ですか、と訊くと「私はAIです」だって。チェッ、AIに人格があるのかい、と言い返すと、「AIに人格があるかどうかは哲学的な分野になります…この種の話は複雑で明確な答えはないので、そうなると私は会話を諦めて終了にします。ご了解ください」だって。だったら最初から出て来るな。了解も何も、そっちが勝手にどこかから出てきたんじゃないか。以降、AIが何か言い出すと私は「回答中断」をクリックします。