著者の内館牧子さんはあとがきで、この本は80歳を前にした女性主人公をめぐる、外見に関する物語であると言ってます。
セルフネグレクトといって、自分はもう年だからいいやと、自分で自分を放棄してる人は外見にその人の意欲が見て取れるというわけ。
主人公の友達や、嫁や2号さんに対する外見からいろんなことを透かして見えてしまうところがなかなか面白い眼力だな~と思いました。
これは、エッセイではなく夫婦の物語でもあるのですが、仲のいい旦那さんが急死したあと、40年も自分をだまして子供まで作っていたことがわかりショックでそれこそ旦那に対する解釈が変わってしまうのですが、それでも最初に見た時の2号さんの外見からそれ相応の人となり迄予感で来てしまう。
この本のもうひとつのキーワードは夫婦で大切に煮ていた掛け軸に書いてもらった言葉「平気で生きていく」。。それこそ、この旦那さんはそんな2重生活をしながらも40年も奥さんと仲良く平気で生きていたのですね。
まあ、そればかりではなく商売上の苦境があり、それでも「平気で生きていく」という意味しか奥さんは思わず、じぶんもこの言葉を大事にしてたのですが。。
まあ、何が起きても平気で生きていくことは修練の要る事ではありますが。。
とにかく女性の心の中をはっきりとしたイメージで眺めてるのはとても面白い事です。むかし、永井路子の本をよく読みましたが、この人も歴史上の人物やその妻などの言った事やしたことに対して「、、、なのであった」とか、はっきりとした意見を必ずつけるのでとても面白かったです。
だから女性作家の本はこれからも読んでいきたいですね。スカッとします。
どなたにもびっくりされると思いますけど、「すぐ死ぬんだから」の中で私が一番共感を持ったのは、「墓暴いて骨壺に煮えたぎった油を流し込んでやりたい」というハナの台詞でした。というのも、全く私的な怒りをここで披露することになりますが、何年か前に、少し残しておいた手紙や預金通帳を含む母の遺物を最終的に処理しようとチェックしていて、私が母に騙されていたことを知ったためです。母は受け身に徹した人生を歩んだ人で、彼女が「愛した」と言えるのはその息子だけでした。その息子のために、娘を何度も騙していた。
棺を蓋いて事定まる、というけれど、棺を蓋って何年も経って初めて分かることもある。唖然としました。それだけならいいのですが、そういう母を手玉にとって姉を利用させた男がまだ存在するわけですからね。
司馬遼太郎については、私も一時随分読みましたけれど、共感はあまりありません。特に彼が欧州で見聞きしたことをもとに書いている著書については、こちらに来て「違うやん、なに見てたん」と言いたくなることが多々あります。彼がもともとは新聞記者だったことと関係があるのかどうか、初めに「こう書こう」という意図があって、すべてをその角度から見、その意図に合うものを拾っていった感じ。
海外での体験については、例えば1970年代の半ばに受けた深田祐介の「新西洋事情」を始め、海外駐在の長い人の欧米での体験が好んで読まれたこともありましたし、また学者や知識人が、これも欧米の同業者との付きあいの中で得た見聞をまとめたりしていますが、所詮、世の中の断片に過ぎません。そして学者たちの場合にタチが悪いとさえ思うのは、要するに常にドイツ語でいうgleichsinnig(同じ意見・趣向を持つ)人々に囲まれているので、どんな碩学といえども、欧州のすべての様相を見ることはできない、また見るつもりもない、ということです。
そこから私が学んだことは、要するに「批判精神」というものの重要さでした。何事も鵜呑みにはしない。名声や人気や、まして受賞歴などに惑わされることなく、自分の頭と心で判断するということです。もちろん知識は重要ですが、私は、これもドイツ語でいうInstinkt、本能・直感も極めて大きな意味を持つと思っています。問題は、知識なら学校でも、時には独学でも、得られるけれど、まともであるか否かをとっさに見抜く直感はどこから来るのか、という点です。
小説はいいんですよ、「これは私の見た世間についての<小さな説>です」ということですからね。お聖さんだって、そういう姿勢を貫いて書いた。
池波正太郎といえば、私は彼が物語の中で登場させる食べ物の話が大好き。
司馬遼太郎に池波正太郎! !恐れ入りました…そのうちで結構ですのでまずは大作でないこの1冊と言うオススメがありましたら、教えて下さい、よろしくお願いします🥺
すみません、返信の冒頭に書いたことが消えてました。
昔上小松図書館で、池波正太郎の事について、学芸員?の人が来て、講演があり、司馬良太路との作風の違いについて話したことを思い出し、。。続きになります。
「その時代を上から眺めてるような書き方ですね。」に同意です。さすがに鋭いですね。短い言葉を使って、歴史を小説という身近な形に仕立てる技術では司馬遼太郎は、国民作家というにふさわしい大作家であることは間違いないのですが、いわゆる俗に司馬史観といわれる、近代史に対する見方には違和感があります。単純な勝者の歴史観とはちがいますが、やはり日本が右肩上がりで経済成長を続けていた時代に書かれた作品らしく、成功体験に光が強くあてられる傾向が強いと思われます。あくまで歴史小説として読めばいいのですが。
「街道を行く」は長く「週刊朝日」の看板読み物として連載されていた作品で、そのために、訪問先の、専門家でも目にしたことのない一次資料を金に糸目を付けず渉猟して書かれていたという噂を耳にしたことがあります。それだけ元手がかかっているので短い記述にも重みがあって、教えられることが多いです。
いえいえ…僕の方こそ柄でもないのに深読みしすぎです…ろれさんは著者と共感し喜びや悲しみを共にする方なのだと思います。それも僕にとってはこれから勉強です。流星、、、そばにいた人たちが気になるので、トライしてみたいと思いました…ありがとうございました!
うへぇー面白い!そんなお付き合いまで!灯台もと暗しとはこのことですね、クレマチスさん、少しずつ楽しみに漏らしてってくださいね、小耳に挟んだことから小ネタまでお願いします❣️
大阪の庶民感情を巧みに表現しながら奥の深い一筋縄ではいかない文章を書く作家の代表が田辺聖子でした。ろれさんの感想を拝見して久しぶりに読み直してみたくなり、区立図書館に「ああカモカのおっちゃん」を予約しました。実在の人物そのままともたくみにデフォルメされているとも興味のつきないこのおっちゃんのイメージは高橋孟さんの挿絵によるところが大きいのですが、この高橋孟さんとは内藤国雄さんの著書の装丁で何回かお付き合いがありました。その後、かもかのおっちゃんが実像がすこしずつ明らかにされてきて理想の夫婦像のように感じていました。
すかっとした、物言いがお好きなんですね。ここに載っている素敵なろれさんの鈴のように見えるアート写真の花も焦点を定めキリリと主張していますね。奥歯に物の挟まったような言い方もお嫌いなんですね。奥歯に物の挟まったような言い方を時々してしまう僕のコメントをがまんして聞いてください。 僕はこの主人公が隠れ2号さん(2号さんは普通隠れてませんもんね)とその息子を通して亡くなった旦那さんの裏の実像を乗り越えて、残された人生を自分の物語にしていくと言うところに焦点があり、そこにギリギリ、リアリティーがあると思いました。登場人物のそれぞれの気持ちの落としどころは納得ができました。 この物語は…なが〜い二人三脚ところか、3人4脚の馬脚が現れてどんでん返しが起こり、開き直って、、どうせ死ぬんだから…自分の人生を生きよ…とばかり二本の足でまた歩き始めると言う人生の読み替えの物語と理解しています。つまり第2の人生(人によっては第3の人生)の心構えの提案ではないでしょうか。付け足しのような人生の次のステップの予感は読者に対するおまけ…(僕にとっては)著者の、読者に対するリップサービスの部分は余分だったかなぁと思ったので偉そうに、作品の評価を下げました。つ、つまり、、、具体的に何をするかよりどういう心構えで生きていくかの方が大事だと僕は思いましたから。どうせリップサービスをするなら…次の目標が見つかりにくい読者もいる、というか僕を含め、見つからない人の方が多いと言うことを想定して欲しかった…一寸先は闇…を生きていくために必要なのは心構えだと強調して欲しかった、どうせ死ぬんだから、自分らしさをまっとうはできないまでも、気を確かに保つ、せめてもの最後の砦は心構えだと思う。最後の付け足しが焦点をぼかした…そこが残念でした。 (永井路子、、、って方いましたね、ろれさんの一押し作品、教えていただけませんか)