文芸クラブに出入りしたり、ライントークなどでふと興味が涌いたりしてその本と出合いがあったりしますが、先日ゴッホ展を見に行く話が出て、私は行けなかったけど、「街道をゆく(オランダ編)」のなかでゴッホの事に触れているという話を耳にし、久々に司馬遼太郎の本を読んでみることに。。
「街道をゆく」は2,3冊読んでいますが肩の凝らない語り方で、旅をした人の傍に行って直接話を聞いてるような親近感を感じていました。
ついでながら、とか余談だがなどとおまけの話も面白いし、その国や地方にまつわる歴史上の物語が解き明かされるのです。
今回はわたしが子供の頃、何度も繰り返し読んだ「フランダースの犬」の舞台でもあるアントワープとか、ルーベンスの事とか、また「ひまわり」の絵を描いた人、自分の耳を切ったとしか知識はなかったゴッホの物語とか、詳しい話が出ています。
ゴッホは生きてる時は誰にも認められず、有名な画商の叔父にでさえ無視されていたようです
でも、弟のテオだけは献身的に兄の生活の面倒を見ていて、ゴッホもこの弟に相当な数の手紙を出していました。
弟は結婚しましたが、妻は兄の面倒を見るテオに苦情を言うことも無く、協力していたようです。
ゴッホが死ぬと、失意の半年後に後を追うように死んでしまうテオですが、その奥さんが引き出しから大量のゴッホからの手紙を見つけ、それを読んで、これは世の中に知らせなくてはいけないと、ゴッホの事を紹介する活動をして、ゴッホは世の中にこれほど知られる画家となったようです。
彼の絵は説明の絵ではなく固定概念から離れすぎた精神の絵だと言ってます。
その当時の誰もが価値が分からなかったのでしょう。
美術学校にも落第したそうですし。。理解されるには、あまりにも早すぎる時代に生まれたのでしょうか?
私だって、未だにゴッホの絵を見て「魂が震える」ところまで行きません。
才能がある人は生きてる時は孤独で一見不幸に見えますね。
でも、才能を持って生まれてしまったら、それを吐き出さずにはいられない宿命なのでしょうか。
昔、ビートたけしが言ってましたが、モーツアルトも蝉がミンミン必死に2週間鳴ききってコロリと死んでしまうのに似てるって。。
あ~、凡人で良かった。人生を適当に楽しみ、出来るだけ長生きをして安らかに死ぬというのが
目標なんですから。。
オランダ紀行ですけど、ベルギーも結構出てきますね。「フランダースの犬」が日本では大人気を博したのに本国では忘れられている理由を日本人の児童文学(研究)者の見解を引用したりして説明していましたが、私は違うと思いました。
最近1980年代のドイツから東欧を舞台にした小説を読んで、今と全く違う政情や社会情勢の中で書かれたものなので(冷戦時代)、当時はそうだったかもしれないけれど今は別の問題が目白押しだなあ、と思い、これらの作家や評論家が今の欧州を見たらどういうだろうと考えたりしました。40年ほどで欧州は本当に様変わりしています。
そういう時の流れ・趨勢とは関係ないところで時代や国を越えての鑑賞に耐えるゴッホとかモーツアルトは、やはり人類代表と言えるのではないでしょうか。