性と文化の革命:W・ライヒ著:中島ハジメ訳:勁草書房: 1969年12月刊
(※以下、自分用のメモにするために引用が、多いのであしからず)
裏表紙の詞書
1920年代、優秀な精神分析医だったW.ライヒは、やがて分析理論の社会改革への適用をめざしフロイトと訣別した…略…ナチ政権樹立とともに北欧への亡命を経て1939年アメリカへの移住を余儀なくされた。やがてライヒ非難のキャンペーンが始まり、彼の著作は禁書となり、、(以下、W・ライヒの生涯292ページより引用) 1957年3月、ライヒは、コネチカットのランベリー刑務所へはいった。そこで、精神科医の検査をうけ、妄想性精神病と診断された。しかし、精神科医は彼の人格の大部分は健康であると判断した。彼は、精神科の治療施設がある、ペンシルバニアでレビスバーグ刑務所へうつされ1957年11月に死んだ。死亡証明書には死因は心臓マヒであるとかかれている。引用以上。
(最初にこの本の1番最後のほうに出ている写真の説明図をご覧ください、この文章の1番下に出ています。ご覧いただければわかるように…宗教も真っ向からライヒに否定されています。これが1957年と言う戦後間もないとは言えアメリカも戦後の混乱から10年以上も経過し世情も安定し始めた頃にもかかわらず著者がピューリタンの多いアメリカで不遇の内に獄死しなければならない原因だったと言えるのではないでしょうか。保守主義者にすれば若い時身に覚えがある鬱屈した性に対する気持ちは理解できるにせよ、それだからこそコントロールしなければならない性に関する伝統をひっくり返され、国情不安を引き起こす恐れは切実に感じたであろう事は想像できる)個人的にはもうそろそろ人間は次のステップを踏む時期だろうし、踏みとどまっていてはいけないと時代になっているという気がしています、どっちにしても混乱を引き起こすなら、子供を含めて人間をあるがまま受け入れて、制度の方をそれに合わせるという至極当たり前の方向に淡々と進むべきではないだろうか。試行錯誤をするにしても、やったことのない方にかけるべきじゃないだろうか、子供も大人も人間を信頼して、次の時代にいっぽ踏み出す、なんちゃって、それとも出遅れているのは僕だけ?)
最後の281〜283ページから長くなりますが引用いたします
快不安は、自然な快感のおこり方が社会によって妨害された結果であり、大衆心理学的そして性科学的な努力においてゆきわたるあらゆる困難の核心なのだ。いんちきなつつしみぶかさ、道徳、総統への盲目的な服従、その他のかたちをとって、この不安はあらわれる。たしかに、インポテンツだと、政治的に反動なのが恥なのとおなじように、恥だ。性の能力があるのは、革命的であるのとおなじようにいまだに、理想とされている。そして、すべての反動的人間が、今日では革命的人間を演じている。しかし人生における幸福への機会をのがしてしまったのを、機会はもう二度とこないのを、だれもみとめたがらない。この理由で年をとった世代は、わかものの具体的な人生肯定を攻撃するのだ。おなじ理由でわかものは、年をとると保守主義者になるのだ。自分のために、もっとうまくことがはこべたのに、と認めたくないのだ。むかしは肯定していたものを今では否定している、と認めたくないのだ。自分自身の望みを実現するには社会の進行の全体を再編成する必要があったろう、そして社会の進行を再編成したなら、多くのだいじな幻想や、代償の満足なんか、ぶちこわされただろう、と認めたくないのだ。
中略…しかし最後には、人間の自然の力が勝利をおさめ自然と文化の調和がくるだろう。あらゆるしるしがしめしている。生命が、それがいままでおしこめられてきた、おもくるしい形にたいして、反抗しているのだ。「あたらしい生活」への戦いがおこっている。それは、はじめはしかたのないことだ、主としてもっと深刻な解体、個人と社会のいとなみの、物質的なまたこころのうえでの解体というかたちをとっている。しかし、もし生命の進行を理解するなら、終局的な結果をおそれる理由はなにもない。じゅうぶんにたべるものがある健康な人間は、ぬすみをはたらいたりしない。性のうえで幸福な個人は、抑制するための「道徳」とか超自然的な「宗教体験」なんかいらないのだ。根本的には、人生はそんなに簡潔なものだ。人生へのおそれによって特徴づけられる人間構造によってはじめて、人生はややこしくなるのだ。引用以上。
さて、ではこの本の目次の順番に進めていきたいと思います。
第3章 性のいとなみの矛盾を生む結婚制度
41ページ、、、中略、、かんたんな計算をすればこのことすべてが実際に意味することがわかる。ちゃんとした性改革主義者ならば貧乏な女性に、5人以上子供をうんでくれとは期待できない。性科学の権威者たちがどういおうと、男はうまれつき、性的な興奮をおぼえ、結婚証明なんかなくても性の満足をえたがるように、平均して2 、3日毎に性的なたかまりを感じるように、できている。ということは、もし彼が自分の生物学的な欲求にしたがい、伝統的な性道徳にしたがわずに、生活するとしたら、14歳から50歳までのあいだに、3000回から4000回性交することになる、ということだ。引用以上。
(うちの父が何かを計算していました…何の計算?…いやぁーたいしたことないんだよね今まで飲んだお酒の量〇〇石コク、、、別件…高校生の時友人が今までにマスターベーションで出した精液の量を計算していた…こんなもんか…。男って何でも計算したがる)
(性教育を家庭に任せると言うのは為政者はすぐ考えることだろう。家父長制にそれを負わせる事は社会の安定のためにまずは正解だったとして、家父長制がなくなったとしたら為政者はどう考えるだろう。宗教にその役目を負わせる国は多い。セックスを解放する事は「自由」を知らしめる契機になる。為政者はそれをまず恐れるだろう:私見)
第5章 教育装置としての権威主義的家庭
86ページ、、、
それで、家庭の政治上の役わりはふたとおりある。
1 、家庭は人々を性的なかたわにすることによって、家庭自身を再生していく。それ自身をいつまでもつづかせることによって、家父長的な家庭は、それを抑圧することを、自分の気持ちを生んだすべての結果、つまり性的な障害や神経症や精神病や倒錯や性犯罪とともに、いつまでもつづかせる。
2、家庭はいつまでも、生きることと権威をおそれる個人をつくり、それで、ひとにぎりの権力者によってたくさんの人びとが支配される可能性を、なんどもなんどもつくりだすのだ。引用以上。
(著者は、ピューリタン的生活…上品で節度あるつまり良家の子女を守るためのバリアーの嘘くささとか、青少年のケモノとしての自然の発露のはけ口のなさ、大人の性生活の隠蔽性などが社会に及ぼす影響などを明快に語っている、そしてそれが語られた時期、社会環境とあまりにもかけ離れていた(でも当時の青少年の心情には近かった)ので…自らの居場所を求めてたどりついたアメリカで発売禁止の憂き目に会い獄死した、アカデミズムにも国家権力にも言うべきことを言い続けた偉大な人だと尊敬いたします)
(適齢期?の青少年が性の暴走にブレーキをかけるためにゲーム、飲酒、スポーツなどに精力を費やすたって性欲を昇華するには限度がある。自分自身が今どういう状態にあるかをきちんと把握して学習することがいかに大切か…教育というのが本来果たさなければいけない役目を十全に発揮していない、ベストカップルと思える若きロミオとジュリエットが家族や近隣、社会とのしがらみの中で当人同士では解決がつかない、つまり本人同士の合意によらずしてその他の付随条件により本人同士の合意は反故にされるような旧態依然とした時代錯誤に対するオブジェクション異議申し立てであり、時と所を得れば、社会に警笛を鳴らす勇気あるホイッスルブローワーとして、ノーベル平和賞を受賞すべき人物であったと僕は思いました)
第7章 おしつけがましい結婚とながつづきする性関係
126ページ…略…一般的な印象は、性をこわがる個人の無意識にとっては公認の結婚許可証は性交にふけることをゆるしてくれるものにほかならないというものだ。このことはいわゆる「戦争結婚」の場合に特にはっきりわかる。男が出発するまえに性的な抱擁の幸福感を経験したいと望むカップルが、結婚許可証というかたちのゆるしをえるために、許可局にさっとうする。そして、彼らは数年のあいだわかれわかれになるが、わかれていればパートナーのおもいでは徐々にうすらいでしまう。もし彼らがわかければ、彼はべつの愛のパートナーにであうだろう。かんがえのあるものなら、このことで彼らをせめはしない。しかし、結婚許可証は、まったく形式だけのからっぽのものになってしまったにもかかわらず、その拘束力を発揮しつづけるのだ。わかいふたりはある期間のあいだわかれて、その結果なにかがおこるまでは、おたがいに幸福になろうとのぞんでいたが、いまでは自分たちが網にとらわれているのに気がつくのだ。こういう「結婚」から生まれるみじめさについて、とくにこの国では、多くのことがかかれている。しかし、これらの書物のどこをみても、だれも問題の核心にふれていない。つまり、愛の体験を法制化する必要がどこにあるか、という問題だ。にもかかわらず、「われわれは結婚したい」ということはほんとうは「われわれはだきあってセックスをしたい」ということだ、というのはだれでも知っている。
127ページ、、、性にたいする人間構造は、おしつけがましい結婚の結果、退化してしまった。これらの状況のもとでは結婚許可証が、男が責任をとらなくなってしまうかもしれないということから女をまもる方法になる。そのかぎり…そしてその限りのみ…結婚許可証は役わりをはたすのだ。引用以上。
(これは男性からの意見で女性からの意見も聞かなければ公平を欠くことになるだろう、それでもなお100年後の2045年の人々がこの彼の著作を読んだときどのような感想を持つだろうか…非常に親しい感じを持つに違いないと僕は思っています、資本主義のゲーム性がかなり減少されて人々が自由であることの本質を、身に付けているような時代であってほしい2045年)
142〜143ページ、、、中略… 30年戦争のあと、中部ヨーロッパの人口はかなりへっていた。そして1650年の2月14日にニュルンベルグの地方議会は一夫一婦制でなければならないという要求をとりのぞく法令をだした。「さきの30年戦争の間にあいだ、につるぎと、やまい飢えによって減少した男子の人口を回復させることが、神聖ローマ帝国のためには、どうしても必要だ。…男はみんな、ふたりの女と結婚することをゆるされるだろう(フックス「風俗の歴史」から)。そして科学者たちはいま「自然で生物学的な」一夫一婦制なんてことをいっているのだ。
政治的…一夫一婦制の死ぬまでの夫婦関係は権威主義家庭の核だ。そしてこんどは、すでにわかったように、その家庭が、権威主義社会の全メンバーをイデオロギーのうえで訓練する場所なのだ。このことに結婚の政治上の意義と重要性がある。引用以上。
第9章 性革命
中略…ここに帝政(ロシア)時代の法の一例がある。
第106条 夫は彼の妻を彼自身のからだとおなじように愛し、彼女と調和して生活し、彼女が病気のときには彼女をあすけるものとする。彼は、彼の状況と彼の能力に応じて彼女をやしなうものとする。
第107条 妻は彼女の夫を家庭の長としてこれにしたがい、彼を愛し、尊敬し、かぎりなく奉順しつづけ、あらゆることをして彼につくし、主婦としてのあらゆる愛情を彼に示すものとする。
164条 両親の権利。両親の権力は性と年齢を問わずすべての子どもにおよぶものであり…
第165条 両親は、手におえない不従順な子どもをよくするために、家庭において強制のための手段をつかう権利がある。もしこれらの手段が不成功なら両親はつぎの権利をもつ。
(1)両親の権力にたいする故意の不服従、不道徳な生活、その他のあきらかな悪徳にたいして、彼らの子どもを投獄する権利。
(2)子どもにたいして法廷で訴訟手続きをはじめる権利。親の権力にたいする故意の不服従、不道徳な生活、その他のあきらかな罰は、2ヶ月以上4ヶ月までの懲役であり、裁判所による特別な調査を必要としない。この場合には両親は、判決を彼らが適当と思われるように、短縮あるいは延期する権利がある。引用以上。
革命期のソ連の性生活に対する混乱について、、文化革命が不成功に終わった断片を見ることができる→
182ページ、、、
コボセフはいった。「うたがいなく、革命は。労働者の家庭生活を、たいへんかえてしまった。とくに、夫と妻が共ばたらきの場合は、妻は、自分は経済的に独立し同等の権利があるのだとおもう。ある種の偏見、たとえば、夫は家族の長だというようなのは、克服されている。家父長制の家族は崩壊する。労働者たちの家族にも、また農民たちの家族にも、わかれて独立した生活をおくろうという、つよい傾向がある。結婚がなぜ存在するのかという根本が気がつくとすぐにだ」。
クルコフはいった「うたがいなく、革命は家庭生活を、家庭にたいする態度や女性の解放にたいする態度をかえさせた。夫は自分が家族の長だとおもいつづけているし…つけくわえて、宗教的な問題や、女性にたいして小市民的な要求をもつなということがある。ところが。手ぢかの手段ではたいしたこてはできないので、スキャンダルがおこる。妻は、といえば自由をもっと、どこかに子どもを預ける権利をもっと、夫がいくところに自分もいっしょに、しょっちゅういく権利をもっと、要求する。これがあらゆる種類のスキャンダル事件の原因なのだ。しばしば離婚にまでなることがある。共産党は、これらの問題にぶつかるとたいていこういう。家庭や、とくに夫婦げんかは、私的なことがらだと」。引用以上。
第10章 性革命の抑制
193ページ、、、きびしい結婚観と家族的な態度をもった女は、夫が政治生活に入るとヤキモチをやくようになる。彼女は、彼が他の女性と関係を持つようになることをおそれている。家父長的な夫は、妻が政治に興味を示すと、同じような反応をあらわす。親たちはプロレタリアも含めて、彼らの思春期の娘たちが集会に行くことを好まない。彼らがおそれていることは、女の子たちが「まちがった道を行く」、すなわち性のいとなみをはじめること。子どもは共営集団へ行かなくてはならないのだが、親は、いまだにむかしながらの所有者的な要求を子どもたちにする。親たちは子供たちが批判的な目で見るようになることをおそれている。これらの例ははてしなく列挙することができる。引用以上。
(ソ連の指導者たちの回りくどくてわからない性に関する言説をライヒは下記のごとくのわかりやすい言葉に変えて喝破しています)
195ページ、、
「たがいに愛し合う自由で独立した人間」の「理想的な関係と対照されている。大衆はこれらの考え方に網にとらえられたさかなのように、とらえられていた。これらかんがえ方をもうすこし注意ぶかく見るならば、その完全な無意味さと。その反性的、すなわち反動的な性格が、あきらかになるだろう。「野蛮な奔放な生活」とはなにか?それの意味するところは、男と女は、自由奔放に性の抱きあいをしてはいけないというのだろうか?また「理想的な」関係とはなにか?「動物」性に完全に身をまかせてしまうことができるような、そういう関係なのか?しかし、それならばまた「野蛮」ということになってしまうのだ!つまり、言葉が性のいとなみと、その葛藤と、その現実を、理解するかわりに、これらの苦痛にみちた主題に接することを避けようとして、真実をぼやかしてしまうだけなのだ。
この混乱したかんがえ方のもとはなになのか?青年の病的な性欲、すなわち、文化的な成就とあいいれない性と、健康な性、すなわち、文化的な成就の生理的基盤とを、区別することができないからである。また女性側における性についての自覚と自信が、彼女の社会的な解放と活動のうえの基盤である、ということを気づかないで、そのかわりに、「単なる女」(すなわち感覚的な女)と「人間」(すなわち活動的な、高尚な女)を対立させている。また「奔放な生活」と「理想的な」関係を対立させて、愛する人に完全に性的に身をまかせてしまえる能力こそが、ふたりの関係のもっともたしかな基盤である、ということに気がついていなかった。
第12章 わかものコミューンにおける抑制
246ページ、、中略…人間の心の構造は、共同生活に適合されるべきだ。この順応は、うたがいなく、嫉妬や、パートナーをうしなうのではないか。というおそれ
を減少させるだろう。一般的に、人びとは、性のうえで独立することができない。彼らは愛のない、しつこいきずなで、パートナーに拘束されていて、だから、わかれられないのだ。もしパートナーをうしなったらべつのパートナーをみ、つけられないかもしれない、とおそれているのだ。このおそれは。いつでも。母親や父親や年うえの兄弟姉妹にたいする幼児期的な愛着にもとづいているのだ。もし家族に共営集団がとってかわれば。こういう病的な愛着が形成されることもおこらなくなるだろう。このことが、現在の性のすくわれなさの核心を、とりのぞくだろう。それで、適当なパートナーをみつける可能性がふえるだろう。それは嫉妬の問題をとりのぞかないまでも、すくなくとも非常に減少させるだろう。不必要な損害やくるしみなしに永続的な関係を変化させる能力は、基本的な問題のひとつだ。
人びとの心の構造が変われば彼らは、やさしく同時に官能的な、性器的な愛を、体験できるだろう。子どものときから、性を完全に体得できるだろう。つまり、オーガズムの能力を発揮できるだろう。性の障害や、神経症や、満たされない一夫多妻や、がんこで神経症的な性的な転移や。無意識におしこまれた性や、その他を予防するには、莫大な努力がいるだろう。それは人々にどうやって生活すべきかを教えること、ではない。それは。次のように彼らを育てるという問題だ。彼らが。自分の性の営みを、自分で、社会的に危険な厄介ごとなしに。調整できるように、だ。このためには、まず、自分の性器性欲が禁止されずに、社会的に保障されて発達することが、必要条件となる。そうして初めて。自分の性のパートナーに対して率直になれる能力、嫉妬の感情を。残忍な行為に発展させずに、耐える能力が、発達するだろう。性の営みの葛藤を、地球からぬぐい去ることができないが、その解決は促進される促進されうるし、されるべきだ。
第13章幼児期の性のいくつかの問題
272ページ、、、
「6歳のガリークがいった。「おねがいだから、なにがおこったの?」きいたこともないことがおこったのだ。8歳になるリューブカは、字を、かくことをならったばかりだったが「恋に落ち」、8歳になるパウリクに紙きれをわす。「わたしのすてきな人。わたしのたいせつな人、わたしのダイアモンド…」「恋に落ちる!なんて小市民的なことか!結局、ニコラス皇帝の時代はおわったのだ!」。ことは、熱っぽく討論され、罰として、リューブカは、三日間あそび場へちかづいてはならなかった」。こういうぐあいにファニーナ・ハレは、ソビエト制度の道徳性をあきらかにするために、彼女のよく知られている本「ソビエト・ロシアの女性」にかいている。その本では、彼女は、全体的な「道徳」の世界の判断において共産主義をたてなおすことを、要求している。
ふたりの子どもがたがいに愛撫しあっている姿をがまんできず、幼児の性の魅力や、自然性を知らない教育者や性科学者は、彼らの意向がどんなに立派だろうと、あたらしい世代の革命的な教育には役に立たない。幼児の性の衝動には、幼児の官能的な愛の表明には、数千の無味乾燥の分析や論文よりも、はるかに純粋な道徳性と強じんさと人生への意志がある。ここに、幼児の性質の生き生きしたなかにほんとうに自由な人類の社会への保証がある。、、、
中略…「教育者自身が教育されなければならない」というマルクス主義者の文章はからっぽの空言になっている。いまこそ、それに具体的で実践的な内容をあたえるときだ。あたらしい世代の教育者、親たち、教師たち、政府のリーダーたち、経済学者たちは、まず自分自身が性のうえで健康でなければならない。さもなければ、子どもたちやわかものたちを、性経済にしたがって育てることに同意することだって、できるはずがない。
ヴィルヘルム・ライヒ、その風貌から推察した通りやはりユダヤ人でした。これ、差別じゃありません。こういうエキセントリックな人って結構ユダヤ系に多いので。生誕時の国籍はオーストリア人、当時オーストリア=ハンガリー帝国の領土だったウクライナに生まれているんですね。
それでやたらクラウス・マリア・ブランダウアーの写真が出てくるのでどういうわけかと思ったら、2012年にライヒを主人公にした映画が作られ、その中でブランダウアーがライヒを演じているのです。
いちまる師匠は余り映画をご覧にならないようですが、この俳優さん、007のNever say never againに悪役で出て来ますし、愛と哀しみのナントカいうアフリカを舞台にした映画にもメリル・ストリープの元夫役で出演しています。
日本ではこのライヒの映画、ちょっとは話題になりました?
、、、人類史上で初めてまともに性を語ることができるようになった、とも言えないでしょうか、、、はい、おっしゃる通りです! ですが部長お言葉ですが…ちょっと言い換えてもよろしいでしょうか…人類史上で初めてまともに語りあえる端緒についた、と。といいますのは女性はまだしも男性の方がとにかく頭ががんじがらめになっていますので脳軟化症にならない程度に柔らかくならないことには話にならないのではないかと愚考いたします😅
性というものに関する共感・反感・合意・反発は男女間でずいぶん異なるのではないかと思います。それを言うなら今話題のLGBTの人達にも意見を聞いてみたい。
日本では性を話題にすることの禁忌、女性の処女性の重視など、ほんのこの間まで普通の社会規範でしたが、これって意外と最近のもので、皮肉なことに明治の近代化がもたらした歪みのように思われます。これもキリスト教が輸入されたことと関係があるようで、それ以前にはいびつな性概念に縛られて生きているのは儒教や朱子学に捉われた武士階級だけだったのですね。
奈良時代なんて、女帝の時代もあったことから分かるように、女性は精神的にはずっと自由で、だからこそ数々の女性万葉歌人や、その後のレディ・ムラサキ、納言ちゃんなどが日本の文学史を飾ってくれたわけでしょう。
ただ、性というのはどうしても出産との関連でほっておくと女が優勢になる。男は生まれた子が自分の血を引くかどうか、これはもう信じるほかは無いので不利なのですね。奈良時代(江戸時代もですが)の女帝が誰一人結婚していないことも(持統のように未亡人になってからというケースもありますが)、この〈子を孕む〉という女性の機能に関係していると私は思っています。
逆に言うと、そのために女は神聖視されたり神秘な存在と見なされる傾向が、これは洋の東西を問わず強かったので、それが崩れた今、人類史上で初めてまともに性を語ることができるようになった、とも言えないでしょうか。
うわあ、これは長い。昔風にカウントすると400字詰め原稿用紙で20枚以上ですよ!
ライヒという名前でこれはドイツ人だと思ったらやっぱり。
性の問題は普通どうしても避けてしまうけど、本気で取り組むと興味の尽きない分野でしょうね。だから時代に逆らってあえて取り組んだら、精神病と診断されて非業の最期。
英国のヴィクトリア朝ではちょっとした性的表現も禁止されていて、そこに登場する女性はみんな、英語で言うとprudishで primなんですよね。オースチンもブロンテも、ディッケンズだって、誰も性描写はしていないでしょう。でもそういう時代の規範に従わでもないと本は出せなったから仕方がない。
今となっては何で裁判までして騒いだのかと笑ってしまう「チャタレー夫人の恋人」、伊藤整はそれで有名になって、彼の側に立った作家もそれで結構名が知られるようになった。
今印字したので今夜ゆっくり読んでみます(PC画面は長いとちょっと辛いから)。